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小さな生命体

食事の途中、二杯目のウイスキーの水割りを作ろうとしてキッチンの作業スペースを見ると、この世のものとは思えない黒い物体が目に入った。

まるで目だ。

私は招かれざる客に目を凝らした。
たった一滴の甘辛醤油ダレを囲んでアリが群がっている。

私はゾゾッとしながらも、一方では懐かしい気持ちにさせられた。なぜなら小学校の国語の授業で習った、とある物語を思い出したからだ。

その名はスイミー。

主人公のスイミーは小さな黒い魚だった。
怯えた小さな赤い魚たちと固まって泳ぐことで大きな赤い魚の目を演じ、巨大魚に食べられないよう完璧な策を練り上げた策士だ。子供心に勇気と希望を与えてくれたその物語は、今でも私の心の中に根付いていたようだ。個よりも集団となった時の力の大きさ。その頼もしさ。

しかしその力がマイナスへと傾いた時の恐れは、私の日常の時を止めさせるに値する。
当然一旦ウイスキーの水割りはお預けとなった。

目下にいるのは黒い目玉の妖怪だ。スイミーなんてかわいいものじゃない。
私は素手で目玉をシンクへと突き落とし殺虫剤を振りかけた。身体中が痒くなる。

ふと足元を見ると、ポツ、ポツ、と、目玉になりきれなかった小さな個体が歩いていた。

「まだいたのか! どこから!?」

疑問形で叫びながらも私の中の答えは決まっていた。この家に住んでいたならあの部屋を疑わずにはいられない。

「多分お兄ちゃんの部屋じゃない!?」

やはり娘の解も同じだった。多数決で結論付けられるなら最初っから決まっている。
侵入源は息子の汚部屋だ!

私と娘は、ポツポツとマダラにいるアリを辿った。
アリなんて小さな生命体は怖くもなんともないが、束で来られたならたまったものじゃない。
そもそもアリの行列は外で見るものだ。外には沢山の食べ物があるはずなのに、なぜわざわざ我が家へとやってきたのか。

息子の部屋はキッチンの隣の部屋だ。
私はゆく道を警戒しながら無差別に殺虫剤を振り撒き歩いた。

振り撒きすぎたのか想定外にもガス警報機がJアラートのようにけたたましく鳴り出した。
ウイーンウイーンとかなりの大音響で止まらない。ガス警報機は家具の後ろに隠れている。そんな存在は日常の中で忘れていたのでかなり驚き、ジャマだと怒りが込み上げた。

「うるさい黙れ!!」

この近所迷惑な大音響をどう止めればいい!? さらにこの忙しい中トコトコと私の足元を歩くアリ。さあどうするか。

私は家事場の馬鹿力で家具を退かすとコンセントからガス警報機のプラグを引っこ抜いた。

しん……と静まり返る。

この辺りでは殺虫剤は厳禁だと学習した。禁忌を犯せばガス漏れ警報機がうるさい事になる。
アリはケンシロウが秘孔をつくかのように一匹ずつ指先で仕留めていくしか方法はないのか?

玄関が忙しなく開く。
ただいまーと、脳天気な息子の声がした。
殺虫剤を手にして戦闘モードの私に、不思議そうに「どしたの? まさかG!?」と問うてくる。

「アリが来た! 発生源はあなたの部屋なんじゃないの!? いい加減にしてよ!!」

「え!? オレの部屋じゃないよ! あるはずない!」

「なんでそう言い切れる!? その自信どっからくるの!? ヤツらの嗅覚はすごいんだから! なんでお菓子のゴミをそのままにしておくの!? エナジードリンクの缶、そろそろ捨てなさいよ!!」

私は一気にまくしたてた。
娘がそうだそうだ、と援護してくれる。

「Gだ!!」

突然息子が叫んだ。
指さす方に視線をやると、ヒョコヒョコ……と、弱った様子の小型のGが壁を這っている。どうやらこっそりと潜んでいたGがアリへの殺虫剤のとばっちりを受けて、もがき苦しみシャバへと出てきたようだ。

「お前も来たのかよ!!」

来たところで少しも怖くはなかった。
たった一匹のG。
本来ならアリさえ居なければ恐れおののく存在だが、その時の私の脳内はアリの大群でアドレナリンがドバドバだった。そこに関係の無いGが現れたとて「めんどくさいジャマ!!」と、殺虫剤を振りかけて手早く始末だ。

「もうこんな家いやだ~!」
「早く引っ越そうよ~!」

子供たちがそんな弱音を吐き出した。
だめだ。このままでは士気が下がる。
大群攻めを得意とするアリは、あのスイミー達のように大きな生命体を欺く戦法が得意なはずだ。私たち家族が違う方を向いていてはヤツらの成すがまま、我が家はアリの巣と化すだろう。

「とりあえず今はアリの始末!!」

私の鶴の一声は効いたようだ。
子供たちはアリと向き合いだした。恐る恐るとアリの軌跡を辿っていく……。

 「発生源はお母さんたちの寝室だ! 行列がある!」

「そんなバカな! あなたの汚部屋じゃないの!?」

「俺の部屋は守られてるんだ! いつだって虫は俺の部屋へは来てないだろ!?」

そうだ。息子の部屋に来るのはアシダカグモの益虫ぐらいだった。
なんだか考えれば考えるほどツッコミを入れたくなるが、私は何一つ返せずに自身の寝室に殺虫剤を存分に振り撒いていった。

辿ると部屋の角が侵入口のようだった。
アリたちは角部屋の外壁から隙間を見つけ、雨風を凌ごうと内に入った。それからあわよくば食べ物にありつこうとはるばるキッチンまで行列を成したのだろう。

出会っていたのが外ならば少しも問題はなかった。
外で会ったなら私は、行列の中間あたりで差し入れとしてパンくずを落とし、目的のために進む彼らを応援しただろう。
けれど現場が我が家となればそうはいかない。
アリの行列と添い寝なんてありえないからだ。

私は家中のアリを駆逐し、仕上げに侵入口をテープで塞いでおいた。だけど不安はまだ残る。

「なんだか身体が痒い気がする。アリが私の身体を這ったりしてない!? 残ってない!?」

子供たちに確認してもらうが、一匹も私の身体を這ってはいないという。じゃあなんでこんなにも身体は痒い? 特に右肘の痒みが気になる。もしかするとさっき素手で目玉をシンクに落とした時の一匹が残ってて私にしがみついているのかもしれない!!

「ちゃんと見てよ! ホントにいない!?」
「なんもないよ。気のせいだって」
「……そう。ならいいけど」

アリ達はその存在が消えてもなお、私に精神的な痒みという爪痕を残した。

「念の為に明日、アリの巣コロリを買ってくるよ」
「そうだね。オレもこれからはちゃんと部屋をキレイにするよ」

小さなアリ達によって、平和な私の日常に揺らぎが生じた。
一方この事件は、頑なだった息子の汚部屋問題の解決に一筋の光を与えてくれたのだ。

ありがとう、アリ。ごめんね、アリ。
もう我が家には二度と来ない方がいい。互いに酷い目に合うから。

私、あなたと会う時は絶対、外がいいの……。

 

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