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あるべきものがなくて

ああ、なんてこった。
通学の高速バスに乗ってしまってからの腹痛。今朝バナナを食べたのが原因なのかもしれない。朝の食物繊維は気を付けるべきだったと僕は高速バスの中で悔やんだ。

腹からはぎゅるるると嫌な音が響いてくる。
学校まで何事もなく高速バスに乗っていられるのか、少しも自信がない。全身は鳥肌となり、冷や汗が湧き出た。

目的地到着まで一時間以上はある。
僕は腹痛に効くツボをスマホで検索した。
何ヶ所かのツボを刺激してみたが、効いているのかどうかは疑わしい。

さらに気を紛らわそうと母親にLINEを送った。

『ヤバい腹痛い』

朝ご飯に上乗せしてバナナを進めてきた母を恨む訳では無いが、とにかく気を紛らわせたかったのだ。こんな危機的状況の時、遠く離れた自宅にいる母親にLINEを送ったとして、何が解決するのだろうか。母親が代わりに用を足してくれるドラえもんが持っていそうな道具もない。

再び波が来る。
僕は肛門に集中した。
息をするのも虫のように浅くしなければ失敗をしてしまいそうだ。そんなサバイバルのような腹事情を、僕は途中下車できない高速バスの中でもがき苦しんだ。

『大丈夫なの?』

自宅で出勤準備をしながら家事をしているだろう母親が、LINEに気付き返信をしてきた。
僕の腹は更に二段階も上の痛みと共にぎゅるると鳴った。

『かなりやばい。なんでバナナなんて食わせたの』

ついに母親のせいにしたくなるほどに余裕がなくなった。

鳥肌と冷や汗が凄くなる。
僕は腹痛に効くツボを必要以上の力で押し続けた。

『途中下車って高速バスでできる? なんなら運転手にバス止めろと言って降りてそこら辺でとか。無理か。でも大丈夫。もしも最悪な事態になったとしても命を奪われることはないから。それでも最後まであがいて!!』

母親からそんな熱いLINE返信があった。
可笑しくて僕の肛門の緊張は緩みそうになった。
命を奪われるわけではないならば、もうなるようになればいいのだと緊張を緩めたくなったが、プライドがそれを許さなかった。
僕はひたすら耐えた。
腹痛に効くツボは、ここまでの痛みには効果がないのだと身に染みて勉強になった。
再び母親にLINEをした。

『次で降りる。学校に遅刻するかもしれない』

『落ち着いて。用を足したら地下鉄で行けば余裕で間に合う。都会の地下鉄はアホみたいに本数がある。あなたに幸運の波動を送っておいた。だから大丈夫』

幸運の波動って何だよ。と心の中でツッコミながら、僕は都会の街で途中下車した。
一目散に最寄りのトイレへと駆け込み、天国にいるような心地良さに打ち震えた。
よく一時間半も耐えたものだと、自分で自分を誉めた。
しかしその数秒後、僕は地獄に突き落とされたのだった。

トイレットペーパーが、ない!!

ここは本当に日本なのかと疑った。
四方の壁を見渡すがトイレットペーパーホルダーの存在すら無い。
再び動揺した僕は五十キロほど離れた自宅にて、出勤準備と家事をしているだろう忙しい母親にLINEを送った。

『なにこのトイレ、トイレットペーパーがない!!』

青ざめるという言葉がこの世の中にはあるが、まさに今、それだった。
僕は和式トイレで不格好なポーズをしながら、緊急搬送されてもおかしくない程の心拍数の速さを感じた。

『マスクの予備か汗吹きタオルを犠牲にするとか。頭使ってとにかく拭けるものをさがして!!』

生憎マスクの予備は自宅に置いてきた。汗吹きタオルも、ハンカチも、今日に限って持ってきていない。
なんということだ。
こんなシチュエーション時のあるある、この身に起きるとは思いもしなかった。

そんなあるあるの、奥の手を使わねばならないのか。それだけは絶対に避けたい。その前段階にプライドを捨て去りできることはあるはずだ。

僕は個室のトイレ扉を10センチほど開き、和式トイレに股がった不格好なポーズのまま思い切り叫んだ。

「すみません!! 誰かぁ! ! トイレットペーパーはありませんか!?」

誰かがトイレ空間へとやって来る度にそう叫んだ。
しかし誰一人として相手にしてくれない。
トイレの花子さん的な花男くんとでも思うのか、まるで僕の存在が見えていないのかと思わせる、僕ですら自分の存在を疑うほどの綺麗な無視だった。
僕はそれでも諦めなかった。
 
「すみません! トイレットペーパーありませんかね!?」

誰もが変質者扱いの冷たい目で一瞥し去っていく。
人はあんなにも冷たい目が出来るものなのか……。

それでも僕は負けじと叫んだ。
もう羞恥心の欠片すら手放した。
もはやトイレットペーパーを手に入れることしか考えられなかったのだ。トイレットペーパーに執着した妖怪と言っても過言では無い有り様だ。

「トイレットペーパーありませんか!? 無いんですか!? そんなわけないですよね!? お願いします!!」

必死に呼びかけるが誰もが冷たく無視をするだけだった。

なんなんだ都会の人間は!!

これが都会なのか。
そんな世知辛い世の中に絶望し、僕は和式トイレで不格好なポーズのまま涙を堪えた。

もはや最後の手段を使わねばならないのか。最後の、使いたくない手段……。

諦めかけた僕は、これで最後だと、一か八か目に入った中年男性に叫んだ。

「トイレットペーパーはありませんか!? このトイレにはトイレットペーパーホルダーすらないんです!! ここはホントに日本なんですかね!? 世の中そんなもんなんですか!? そんなのおかしいですよね!? どうか、どうか、たすけて下さいよ!!」

なぜこんな目に合わねばならなかったのか。
神様。僕の何がいけなかったのですか。この試練、僕はどんな学びを得る為に経験させられているのですか!!

「トイレットペーパーはないのかー!?」

僕はなりふり構わず叫んだ。
なんて世知辛い世の中だ。
神も仏もないのか……!!
絶望に右手を振りかざした時、

「大変でしたね。……これ、もしよかったら。流せるポケットティッシュです」

朦朧とした頭で僕は、バリトンボイスに鼓膜を震わせられた。
ミカエル様……?
違う。僕がキレ気味で助けを求めた紳士だ。
無様な格好で和式トイレに跨る僕を気遣い、視線を逸らしたままポケットティッシュを差し出してくる。

僕は個室トイレの10センチ開かれた隙間をさらに2倍の20センチに解放し、不格好な体制のまま、差し出されたポケットティッシュに手を伸ばした。

「ありがとうございます!! このご恩は忘れません!!」

「役に立てて良かったです」
 
紳士は会釈し、去っていった。
僕はその神々しい流せるポケットティッシュを秒で全て使い切り慌てて外へと飛び出した。しかし、辺りを見渡せど流せるポケットティッシュを譲ってくれた紳士の姿は無かった。

『ありがとうおじさん……』

一日の始まり、僕は人の温かみに触れた。
少しも世の中捨てたもんじゃなかった。

再びあの紳士に会うことがあったなら、新品のポケットティッシュと共に、改めてお礼が言いたいと思いながら、爽やかに晴れ渡った青い空を見上げた。

 

 *ある日の朝のこと。息子とのLINEのやり取りを息子の視点で書いてみました。

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