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流れ藻 17. 地獄のとき 〜十一人目の死者〜
17. 地獄のとき 〜十一人目の死者〜
凍る日が続いて、林田和代夫人の危篤が伝えられた。
私に会いたいと云うことで、一日商いを止して、収容されている病舎を訪れた。
ロシア造りの彫り門があり、中の石畳を辿るとその奥の家が難民病舎にしてあった。
その一室でやっと彼女を見つけて息がつまった。
ぎっしりとサーデンの様に並べられた病人を、踏み越えて近寄ってみたら、その人とも思えぬ位に、水腫で変貌して仕舞っていた。
長い水瓜を横に置いた様で、眼が一筋に埋もれ込み、胸にのせた手は骨片の様に見えた。
「奥さん、分かりますか?」
と声をかけると、それでもうなずいて見せるのだった。
たった一つ買ってきた青いリンゴを持たせてみたが、両手で支えきれずにあばらの胸の上にのせてしまった。
一筋になった目でない切れ込みから泪がツーと横へ流れて落ちた。
それから、やっと、とぎれとぎれのことばで、
「あたしね
こまったの
こどものこと
こまったわー」
と言うのだった。
そしてギシギシと音のする程に、骨の指を青いリンゴに食い込ませて嗚咽しているのだ。
身も世もない悲しみにおそわれた。どうしてあげようもない。髪をなでてあげるだけだ。
その女(ひと)は「困った」と言う言葉がとても嫌いな人だった。
どんな時でも言わなかった言葉で、いまわの終わりに子供の事を案じているのだ。心のこしているのだ。
こんなに哀しい彼女を見ようとは思わなかった。
入口に幼い歩みの足音がして、二人の子が杉野夫人に連れられて来た。
すぐに遺児になろうとする瞬間を
雪の匂いを身につけて歩み寄った
こうして林田和代夫人は終わってしまった。
十一人目になるのか
もう数もわからない。
(18. 「地獄のとき 〜生を享ける者、つなぐ者〜」に続く)