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流れ藻 22. 引き揚げの旅立ち

22. 引き揚げの旅立ち

新陽住宅前に集結して、荷馬車に乗り込んだ。

私達はハルピンとしてはしんがりに近い引き揚げ団に編入されると云う。

出発するターチョ(荷馬車)めがけてポーミー (唐きび)売りが、バラバラと駆け寄った。一抱えもあるザルに白布に包んだ フカフカのポーミーを皆が一本づつ買って、馬車は走り出した。

ハルピン駅からは貨車に乗せられた。無蓋車だった。一箱に、大勢が詰められた。

箱のぐるりに荷を積み上げて、 その上に子供を座らせて、大人は土間にぎっちり詰め合わせた。

入り口に床が切ってあって、それが便所なのだ。目隠しも何もない。下にレールの砂が見える。

長い時間かけて、長い長い行列が乗り込み、そして出発した。

乗車直前に、検査の名のもとに、反日思想の最も激しい八路軍中の少年兵が、よってたかって旅の食品、衣類を剥ぎとって、トラックに満載して運び去ったので、一同の荷は軽かった。

汽車は時々止まっては、また動いた。止まると、辺りの部落から、水売りと、ポーミー売りが目の飛び出る値で売りつけた。水筒一杯九十円だった。それでも先々のため、 貯えに水を買った。

どこだかわからない松花江(スンガリー)の見えるところで降ろされた。

そこから線路づたいに長い長い行列で歩くのだった。行列の先端はかすんで見えなかった。

苦力がバラバラ駆け寄って、荷運びを申し出た。いくら、 いくらとせりあげて、あまりの金高に、頼める人は僅かしかいなかった。

引き揚げ団の編隊で中隊長を引き受けた室賀は、一行の母子家族の面倒を見ることで、自分の子等のところへはめったに現れなかったので、裕三と私は砂をなめる程かがみ込んで、あえいで歩いた。

夏の陽が良子を照りつける。グンナリ苦しげなのだがどうしようもない。おぶっているより仕方がない。

行列の先がかすんでまがってゆく。 後ろはあまり列にならず割方少ない。これ以上遅れると落伍するのだ。

ずいぶん歩いて、砂地の河岸で小休止さされた。そこでも持ち物一切の検査があり、渡し舟にのせられる。照りつける砂上に良子を横たえて、舟を待った。小さなジャンク なのだ。幾度にも分けて人間は対岸へと運ばれた。

対岸の草原に引込線のレールがあったが、列車はなかった。そこで列車の来るまでを待つのだそうで、待っていたら夜になった。

何の列車が来るともわからないままに、夜営となった。 毛布を敷き、風呂敷をかぶり、夜露を凌いだ。野蚤がピンピンはねて噛んだ。

一晩中露にぬれたら、どうなるだろうと心配した良子はあくる朝、奇跡の様に生気を取り戻し、まともな顔色をしていた。これはどう云う事なのだろう。 神様に守られていた。


午後三時頃、やっと列車が到着して、それで南下した。

奉天までの間、どの箱も死人を出した。人が死ぬ度に汽車が止まってその辺りに埋めて、「ボーッ」と汽笛を鳴らして、また走る。

箱ごとお金を幾らかづつ徴収されて、不時の陳入者、 賊に備えたりした。止まる度に水を買った。

奉天に入ったときは先着十二本の列車が釘付けになり、 皆んな倦み疲れた顔を風に晒していた。

そのどの汽車から も死者が出ているそうだった。

私達は、これ等の列車の次に発車するとしたら、一体幾日ここで、こうして構内に居るのだろうか、と考えていたら、ゴトリと汽車は動いて発車した。

男の方達の奔走で、このままでは被害が多いので運転手に金を贈って、そのまますぐに発つ事に成功したのだそう だ。

先着列車を後目に、奉天を離れたのは幸せであった。無蓋車は走ったり止まったりして、錦州について降ろされた。

収容家屋に入ったと思ったら、地軸を流す程の大雨となった。あと少し、奉天でひまどっていれば、無蓋車の私達は水浸しで、病人も病児も死んだに違いない。

新京駅で見た引き揚げ列車には、屋根もあり、客車でもあり、荷物も十分ある風で、乳母車、自転車までのせてあって驚いてしまった。 私達のは乞食列車に等しかった。シートひとつなかった。

おしめを、シャツを、紐に干して日除けにする旅だった。 大降りの前に錦州の収容舎に入ったのは何としても幸運だった。後着の部隊は、ビショビショで、多くの死者を出した模様だった。

錦州で二週間、検疫、検疫の毎日を過ごした。四種混合の注射、コレラ、赤痢、DDTと、広場に連れ出されての消毒だった。

漸く乗船の日が決まり、コロ島への出発となった。

この時の汽車は箱もない、台だけの貨車だった。

コロ島では果物など手に入れて乗船を待ったが、いざ乗船のときの検査で食品の一切を取り上げられての乗船となった。

(23. 「海路」に続く)

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