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流れ藻 21. 地獄のとき 〜孤児院・引き揚げ命令〜
21. 地獄のとき 〜孤児院・引き揚げ命令〜
中央組ではいつの間にか、中川、佐藤、林田家の遺児達を孤児院に送っていた。その方が環境が良いという意見だったが、果たしてどうか心配なので、手分けして見に行って貰ったら、大違いであった。
放心した五才の林田康子ちゃんのたどたどしい話はこうだった。
「ここへ来たときネ 達也いたの。
達也ネ、毎日 お腹すいて泣くの。みーんなヤッコのもあげるけど 泣くの。
達也ネ お腹こわしたけど 着るもんないの。ヤッコのをネ 着せてネ そいでもって抱いててあげたのに 達也死んだの」
他の中川兄弟は四人とも、全滅していて、佐藤浩介君、富子ちゃん兄妹は年齢が大きかったからか、持ちこたえていた。
迎え出して、ヤッコちゃんを中央の長谷川夫人(子無し)が連れ、浩介君を杉野夫妻が、富子ちゃんを私達の新陽宅へ預かる事になった。
ビッチリとシラミをつけている富子ちゃんを丸坊主にして消毒して、寄せあったものを着せたら、少しずつ元気を取り戻してきた。
連暁が咲いても、リラが咲いても、物を売って歩いた。
大陸の夏の陽が灼熱となって照りつける日が来ても、城内、城外、フウジャテン、と売って歩いた。
城外十道街あたりを歩いているとき、電柱の硝子(ガイシ)の接着剤のような、ねばい、わけのわからない煮えた鉛のかたまりが、背中の良子の二の腕に落ち、「ジー」と煙 をあげて肉へ焼け込んだ。
驚いてつまみ捨てる指にも焼けついた。
見ていた満人がとんで来て、クーニャンの眼でなくてよかったネと、良子の腕の手当をしてくれた。万物を煮え溶かすばかりの太陽が照っていたのだ。
ハルピンに自宅のある村上氏の家に二、三度ゆき、人間らしい食事をさせていただいた。
この人には皆で色々迷惑かけてしまった。
岸川夫妻(岡山出身)もこの家に居候していた。
小康と衰弱を繰り返していた良子も、またも暑気で容体が悪くなってきた。
それでも、いつ何時引き揚げ命令があ ってもいい様に、稼がねばならなかった。食品も、衣類も 整えねばならない。
ロシア軍票、満州紙幣は日に日に激しく上下して、物の価の激変する、流言、飛語の街だった。
何が本当で、何が嘘なのか、全くわからないままに、ニセ札ばかりが氾濫した。
いよいよまた良子の容体の悪くなった日に、引き揚げ命令が発令された。
待ち望んだ命令だったが、こんな病児を連れて旅立つ事は危なかった。かといって、私が良子と二人赤十字を頼れば、それで一家は離散する事となり、裕三と父だけで無事引き揚げ切れるかどうか、これから先もわからぬ以上、一緒の方がいいと思った。
かなう限りの旅の用意をした。
引き揚げがあれば報らせて欲しいと頼まれていた、満人妻になっている人に、そっと教えに行った。
何とかして編入して貰いたいと云う人と、今の安定の方がいいと祖国を捨てる女とがいた。
*年青(オモト)の流行の様に、財ある満人は日本女性をめとり、日本人の子を育てる風潮があった。
(22. 「引き揚げの旅立ち」に続く)