
流れ藻 23. 海路
23. 海路
船はV28 号と云う米貨物船であった。
一行は船底へ並べて詰め込まれた。
どうした訳か、チチハルからの一団は果物も他の食品も充分に持って乗船していた。
船の食事は朝夕二回のコウリャン粥を椀に一杯づつであった。 副食品はなくて、粥にはサツマ芋の蔦だけが二三本浮いているうすいうすい粥だった。
呑水は船の事なので毎日行列して、一人水筒一杯づつ、病人には白粥を配ると説明をきいたが、現実には貰えなかった。
船は博多の沖に着いてから二週間、沖に浮かんだままでいた。
検疫が終わるまで入港出来ず停泊しているのだった。
目の前に祖国の灯を、松をみて浮かんでいた。
スクリュウのあたりへ、「さより」が群れて美しい水紋をみせていた。
「日本だ」と思った。母国へ帰ったのだと。
甲板の風にふかれて不思議と快方へ向かった良子と裕三とでたちつくした。
男の人達は身体が大きいため一杯の粥だけではかひなくて、衰弱するばかりで消耗を防ぐのに唯ゴロゴロ寝ているだけだった。
ランチが来て、検疫官が乗船してきた。
それ迄に提出した検便では他人のものを流用するからダメ、と二人を一セットとしてガラス棒を試験管に入れたのを並べて検便することになった。
甲板の一隅で何の目隠しもないまま吹きっ晒しに並んで、二人で若い検疫官の前に尻部を出す事になって、若い娘さん達は厭だと泪ぐんでいた。
こんな日を迎えるのだったら満州で死ぬんだったなど云ったりしていた。
引揚げ先の記入紙などの説明が終わり、聞けば私達がこっそり隠して持ってきたロシア札も満札もホゴに等しいのを知って、誰も誰もが、衿から靴底からとこれらの紙幣を 取り出して細かくちぎって海に散らした。
わたしもならってそうした。
子供達に何かのしるしにと残そうとしたが、悪夢に似た痛い思い出と共に、軍票の最後の一枚もちぎって捨てた。
かさぶたが落ちた様にさっぱりとして心の傷痕が新しい変わり方をした。
(24. 「上陸」へ続く)