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流れ藻 3. 逃げる

3. 逃げる

出発用意の出来た私達一同に加えて、杉野夫人が年長でもあり、リーダーとして旅立つ事になり、社宅中庭に集結した。

それ迄は学童集団編入の手配をしているとかで別行動を望んでいた笠井家族もうまく運ばなかったものか、行動を共にする事となった。
従ってそれに誘われていた松岡文子(注: 操子の姉。仮名)も同じて、私にとって、この非常時に至って只一人の肉親の姉と共に旅するだけでも他の人より心強い筈であったが、それ迄会社側二人の男性はなにをされていたのか一向にわからなかった。

中庭に現れたのは笠井氏一人だった。出発に際して、送り出す言葉として次の事が申し渡された。

「社員家族一行の路銀としてまとまったものを家内に持たせたから、何とか旨く協力して安東本社へと逃げ延びてほしい」

との事であった。

特に、杉野、谷岡、川井、私へは、

「家族を頼む」
と重ねて、

「一同の金が安東迄十分のものである」
とつけ加えられた。

それからイリヤンのターチョ(荷馬車)に乗せられブへト駅に向かった。

駅頭に来て、やっと私は戦火に追われてここを去るのだと思った。
こんな去り方をするとは知らなかった。 裕三と良子にとって、ブへトは誕生の地なのだ。

心のどこかで、

「何、一寸退いていればまた帰って来れるかも」

という気がしていたが、それが訣別となった。

プラットホームの最後尾に立った時、ラロッシュの鳶色の目が、イワノフの灰色の髪が、ワーレリ、ゴガ兄弟の振 った細い白い手が、点在するロシア造りの屋根屋根のこの 街のたたずまいと共に、動転した私の頭の中でメチャクチャに去来した。

二人の子は、成人したらここを見たいと思うだろうか。

育って、生きていたらきっと見たいに違いない。



避難列車は意外にも展望台のついた一等車だった。私たち一行とあと少数の残留日系、満系だった。
かつての大陸横断列車で、広軌の座席は、ゆったりとした深緑のビロー ド張りのスプリングの良い車両だった。

行く先不明の流民を乗せるには似もつかぬ豪華さで日本人の末路のあわれを運ぶと云うのだ。

座についた直後、爆音を聞いたが、荷物の整理に追われていたら、グングン音は迫り、頭上に機銃が鳴りだした。

地上からは、盛んに高射砲がうたれたと思ったら、

「列車 襲撃、伏せろッ」

と兵隊がなだれ込んで、裕三はシートの下に押し込まれた。
それにかぶさり良子を胸に抱えかがみ込んだ。

「これで死ぬのか
 可哀そうに
 五才と零才で
 遠い日本のみんなは
 この子達の父はどこに
 命終わるとき人間は
 いろいろ思いめぐらさねばなんと云うのだろうか
 祈るのだろうか
 生かせたい
 生きて何とか保護せねば」

と、しっかり子を伏せて覚悟覚悟とあせる気持ちの私を、 兵隊さんが引きずり出して、

「降りるんだッ」
「駅の壕に行けッ」

と叫んだ。

転がり込んだ壕にはもう一行の殆どが居て、私は最後の部だと云う。

ここで待機する暫くの間に、ブへトの街は四、五箇所爆破されたらしい。

「乗れーッ」

号令と共に乗るが早いか、合図も無しに発車して仕舞った。

乗車にも最終モーションの様だった。こうした発車の瞬間にはそこを去る泪などなく、感慨とてなく、息せき切って窓を見たとき、遥か街を後にして仕舞っていたのだった。 車中で人心地ついたのは、パリムも過ぎてヤールからジャラントンにさしかかっていた。

割合近くの席に川井夫妻が乗っていた。

戦闘に残ると泣くのを、重病のためつれてこられた川井氏がグッタリとシートにもたれていた。

上気した顔が相当の高熱を示していてノドの隆起が不気味にゴトゴトゆれていた。

「あらここにいらしたの。如何ですか  まあまあ」
 と抑揚のある語り掛けで、

「サッパリすると思って持って参りましたのよ。アグリツ (注:きゅうり)召し上がれ。それからスミターナ(注:サワークリーム)も御入用の方差し上げますわよ」

目を閉じて聞けば何の事はない慰安旅行の車中の様に、 昨日の夢の続きの様に、到底子連れの者には思いもつかぬ珍品を種々、店開きして部下家族を慰問しているのは杉野 (重役) 夫人だった。

つり込まれてか、

「ホラごらん ノロが走ってますわ。ワー面白い雲。そっくりの影が野原にキレイことね」

と平和な対話が交ざりあって、笑いあって、のどもとすぎた戦争を忘れている風のざ わめきの横で、苦汁を呑んだ様な川井氏の顔が右へ左へゆれていた。

 耐えているのだ
 熱に、苦しみに    
 音に、光に、心ない騒音の現実に
 白くなるまで唇をかんで
 目を閉じて
 耐えている

 いつもなら
 黙れッバカもの
 と どなりたいのだろうに
 耐えて耐えて
 行方も知れない汽車にゆられている

 これから、どこへ、ゆくのか
 それから、どう、なるのか

空腹など覚えない、ひとかけらのパンでも先にのばしてとって置かねば、子が飢える日が来たら私はどうしたらいいのか。私のもってきた食料が幾日子等に食べさせられるのか。

 これから  どこへ
 それから どうなる

そんな繰り返しが頭をグルグルまわっている私の目の前で、楽観的な人達は、笑いさざめいていた。

どれだけの時間走ったのか、その汽車はハルピンとチチハルの三叉路にさしかかって突然停車した。

列車自体行く先が分からなかったのではなかろうか。野辺に随分停っていて、それからチチハルに向かって走りだした。 果たしてチチハルに降ろされるのか、その先の私の知らない野原に放り出されるのか、誰にも、もうどうでもいいと云う諦めの気持ちも交えて、汽車まかせにゆられていった。

(4.「たどりつく。」に続く)

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