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言語と思考の蜜月な関係
フォルケホイスコーレの理念のひとつにラテン語ではなくデンマーク語で「生きた言葉で学ぶ」というものがある。
デンマーク人のほとんどは英語が喋れるし、学校にはデンマーク語を喋れない外国人が1割程度います。それでも、頑なに…本当に頑なに…!!朝の会や先生から全生徒へのアナウンスはデンマーク語で行われるのがフォルケホイスコーレ。
フォルケ在籍外国人が1度は思うであろう「英語喋れるなら、全部英語にしてくれよ…!!!」という願いは、叶わない(と思う)。
けど、この願いと同時に痛感するのは、「使える」言語が必ずしも深い思考に繋がるとは限らないということ。
同じ内容を聞いたとしても、母国語と第二外国語ではその深さは全く違う。それは、言葉の向こう側に積み重ねられた記憶・思考の量が違うから。
文学とは言語の向こう側に蓄積された深い経験からしか生まれないのだなとしみじみ思うわ
— 吉田恵理|編集者 🇩🇰 (@eri_riri) August 14, 2020
母国語の音楽を聞くと、何故私はこんなに死にそうになりながら言語を学習しているのだろうか…?となるな…
— 吉田恵理|編集者 🇩🇰 (@eri_riri) August 14, 2020
英語に飽き足らずデンマーク語を学んでるのだけど、日本語の音楽はその一言から膨大な感情を喚起されるけど、外国語ではそうはならないもんねぇ…
彼らにとってデンマーク語でこの共同生活を送り、感想を持ち、それを発言・表現していくことこそが大事なのだと気付くのに、そう時間はかかりませんでした。
そしてフォルケホイスコーレは、デンマークの税金も投入されている、デンマーク人のための学校なのでその理念思想はちゃんと尊重していきたいし、母国語で学ぶことの重要性はこの立場だからこそ首をものすごい勢いで縦にして同意したい。
一方で、私たち外国人は当然ながらその恩恵を受けることはできないわけで。ほぼ理解できないデンマーク語と、決して自由自在に扱えるわけではない英語を使い続ける日々。
そんな生活の中で私は、自分の思考がぼんやりと不確かなものになっていく、そんな実感がじわりじわりと自分の中で広がっていくのを感じるのです。それは、悪魔の足音と表現しても良いくらいの恐怖を纏って確実にやってきていて。
今まで気づきもしなかったけれど、私は日本語と、日本語を通した思考・表現を愛していて、それこそが今の自分そのものなのだと、遠い異国の地ではっきりと自覚しました。
もう少し英語やデンマーク語を喋ることができたら違うのかもしれない。
じゃあどこまで喋ることができれば変わるの?
言葉の向こう側に積み重ねられた記憶・思考はどれくらい必要?
言語を通して自分の思考はどんな風に変わるんだろうか。
色んな疑問と共に、無意識だった自分の価値観の輪郭を認識し、次のチャレンジへの決意が固まってゆく、そんな秋の夜を過ごすなどしています。
ところで、このnoteのサムネイル写真は学校のライブラリでそのへんに置いてあった誰かが読みかけの本を拝借して撮影したものなのだけれども、その1冊はなんと偶然にもデンマーク語のノルウェイの森でした。
同じノルウェイの森でも日本語のそれとは、きっと全然違う趣なのだろうなぁ。この本を読んだ子は、一体何を感じで、一体どんな言葉を発するのだろう。
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