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はははの話/紙風船を宙で止める

わたし(えりぱんなつこ)が、胃痛から仕事を辞めて、田舎に住む祖母と母と暮らしていたときの話を書いています。




 パン ピシャ と音がする。わたしは体が熱くなり、はかはかしてくる。
祖母が元気なころ、わたしたちは紙風船で遊んでいた。


 わたしと祖母はいつも、テレビとこたつテーブル、本棚のあるリビングにいた。おやつの時間には母もやってきてお茶をし、テレビを見ながら会話をした。季節によって、三人で庭の散歩や縁側で涼むこと、フキのすじ取りをしたことがあるけれど、他の時間は祖母とわたしで寛いでいた。少し喋り、祖母は寝て、わたしはスマホでネットや漫画を読む。同じことの繰り返しは当たり障りないけれど、暇を感じることもある。
「暇そうなら、紙風船で遊んでみたら?」
母の一言で、暇つぶしが決まった。


 一人でやる紙風船遊びのようにおしとやかなものではなく、相手に向けて紙風船を打ち、落とさないようにする遊びである。始めてみると、思っていたより難しい。紙風船は軽く、空気を転がるようにスーッといくので、わたしは力加減や飛ばす方向が定まらない。紙風船は祖母を飛び越えてしまう。いい方向に飛ばせても、すぐに打ち落とされる。ビーチバレーのようだ。あれっ。紙風船ってこうやって遊ぶんだっけ?祖母とわたしで認識違いがある。というか祖母は、わたしが紙風船を取れないのが楽しいようだ。たとえ相手がおばあちゃんでも、打ち落とされるばかりはなんか癪だ。そう思っていると「続くように打つんだよ〜」母が言ってくれて、二人で協力して遊ぶ方向になった。

いーち。にーい。さーん。あ〜ごめーん!

なかなか続かない。相手に向けて飛ばすことが下手なわたしは、自分では上手くやれると思っていたことが、実はそうでもないんだということを思い出した。ちょっとしたゲームや運動神経、人間関係を築くこともそうだ。思考が散らばる。いや、今は目の前のことに集中しないと!


 わたしが飛ばしすぎてしまった紙風船を、祖母が手を伸ばして取ってくれる。アンパンマンのようにベコッと欠けた紙風船。ちょうど、空気穴の開いているところが銀色の目玉みたいになっていて、ギョロッとして見える。そこへ息を吹き込む。ブーーッ。わたしは3、4回息を吹き込まないと完全に膨らまないのに、祖母は一度で膨らませることができる。小柄ながら肺活量に驚く。率先してやってくれるところがまたかわいい。


3回のラリーでもめげずに続けていたら、それ以上打てるようになってきた。
ほっ ほっ
祖母は紙風船を打ち返すのがうまい。基本的にはわたしが打ちやすいところへ返してくれる。十何回に一度、パァンと強めなアタックで紙風船を叩き落とす祖母。
「取れないよ〜。下に打っちゃだめ〜」
と言うと、わかったという顔をしながらも、どこか得意気な表情もしている。たかが紙風船と思っていても、少し悔しい。休む間もなく、お互いに紙風船を打つ、打つ。拾っては打つので、スパルタ指導の部活動っぽさがある。


 また別の日も紙風船で遊んだ。
パン パン ピシャン
(暑い。疲れたな〜)祖母よりもバテるのが早いわたしは、交代した母と祖母の紙風船遊びを眺める。母もわたしも身長が150cm台。祖母に至っては140cm台か。立っているときはそこまで感じないけれど、座っている姿はとても小さく見える。二人とも、足を自然に開いて座る姿が、テディベアみたいだ。
わぁ はは パン ほっ あっ ピシャン
声と紙風船の音がする。祖母も母も上を向き、紙風船を目で追いかける。暑さで顔も高揚し、目がキラキラして見える。
夕飯の準備をする母と交代。紙風船は子どもの遊びだと思っていたけれど、ラリーが続くと楽しい。結構白熱する。ケイドロに熱中した小学生時の放課後を思い出す。夕方の音楽が鳴ったり、親との約束の時間になると、強制的に帰らなくちゃいけないのが子どもだった。もっと遊びたいのに、あーあ残念みたいな。そんなわたしたちは大人になった。やりたければ、やり飽きるまで遊ぶことができる。今は止めどきが分からない。疲れてきたから止めたいような、終わりにするには勿体ないような。


 紙風船はときどき、ふうわりと宙に浮かぶ。時計の秒針が止まって見えるように、時間感覚が変わったような錯覚をする。
ほっ ほっ と声を出し、一生懸命な祖母。ラリーを続けることに熱を注ぐわたし。台所からしばしば見に来る母。パン ピシャ と飛ばされて、色を変えながら浮かぶ紙風船。いーち。にーい。さーん。わたしは目に焼き付けた。




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