私のもとに神様が降りてきたお話。第3話
・「神様、どうか助けてください。」
豪雨のなか、神社で龍と出会ったあの日から2ヶ月が経とうとしていた。
あの体験は一体なんだったのか、意味深なキーワードの意味もわからないまま、まもなく2020年8月を迎えようとしている。
このまま何も起きずに過ぎていくのだろうか。
私が何かしらのメッセージではないかと勝手に期待しているだけで確証はない。
日頃から神社にあがる習慣もないし、鬱蒼とした雰囲気が怖いので初詣しか行かないなどと言っている。
そんな私に神様が舞い降りてくださるのだろうか。
いろいろな思いが頭をよぎった。
しかし神社で涙がとまらなくなったのも、龍を見たのも、ありがたい気持ちになったのも事実で、特別な体験だった。
だからといってはなんだが、
これから良いことが起きるとか、行き詰っている現実が解消するとか・・
そんな奇跡を期待してしまったのもまた事実である。
この頃の私は、現状を打開する方法が知りたかった。
数年にわたり仕事上で関わる人からモラハラにあっていたからだ。
Aと呼ぶことにする。
この頃はモラハラだとは気づいていなくて、自分の力不足で迷惑をかけてしまっているという自責の念の方がつよかった。
Aに対して常に申し訳ない気持ちで、求められることは精一杯やらなければと必死な思いだったのだ。
理不尽さに怒りがこみ上げることもあったし、寝ても覚めても支配されている感覚に嫌気がさすこともあった。
しかし迷惑をかけていながら意見などできなかったし、自分を優先しているなどと言われるのがオチなので耐えていた。
そんな日々に、あるとき疑念がわいて来てしまった。
私の身に起きていることは本当に正しいのだろうか?
時折どうしてもそう感じてしまうのだ。
仮に会社組織に属してお給料をもらっている立場ならあり得たかもしれない。
しかし私はAに雇われているわけではない。
精神すり減らして尽くしたところで私の収入にはならない。
自由を求めて起業して、会社員より不自由になっている。
そんな日々に精神的に参ってしまい、人にカウンセリングしているどころではなくなっている。
迷惑だと言うわりに離れようとすれば逃げだと責め立てるし、言われるまま頑張ってもお金にはならないし、こちらも生活していけない。
こんなことを言おうものならまた、人のせいにしているとか、自分を優先しているとか、人としてどうなんですか、などと総攻撃にあう。
右にも左にも上にも下にも行けないような感覚で、すべてに行き詰まってしまっていた。
「神様、どうか助けてください。」
あの神社ですがる思いでお願いしたのだった。
そして、
その願いは思ってもいない形で叶うことになった。
・Aとの出会い
私には起業当初から、ビジネスを伴走してもらうコンサルタントがいた。
Aである。
Aと出会う前の私は、平日は会社員、週末は地元のカフェなどのイベントに出てスピリチュアルカウンセラーとして活動していた。
イベントは地域の子供たちママたちの憩いの場になっていて、毎月楽しくやらせてもらっていた。
顔なじみが増え、常連さんもでき、子育てママのお悩みから小学生の恋バナまで幅広い相談ごとにのる。
他にもセラピスト、タロット占い師、ヒーラー、曼荼羅アーティスト、レジン作家、チャーム作家など、さまざまなジャンルで得意を仕事にする人たちが集まり、交流が広がった。
大人になるほどコミュニティに所属する機会は減る。
毎日家と会社の往復で終わる、話し相手はテレビ、なんてことは珍しくはない。
当時の私もそんなような感じだったので、この活動が楽しかったし自分のスキルが活かせる場を見つけられて充実していた。
休みなくて疲れないの?と聞かれることもあったが、平日の疲れがここで癒えてます!とよく話していたのを覚えている。
一方で、この心地よいコミュニティの外に出なければビジネスとしての発展はないとも思っていた。
ひとしきりやってみて思ったのだ。
ここは稼ぐ場所ではないと。
この仕事で生活できるくらいまで頑張りたい。
野心が芽生えてきたころ、私はAと出会うのである。
その頃Aは起業コンサルタントとしてSNSで人気を集めていた。
売り上げを上げ続けるためのブログコンサルが人気で、起業したい女性たちから注目されていたのだ。
堂々とした物言い、痛いけど必要なことを言ってくれる、会うとボコボコになるけど気持ちいい、みたいな口コミをもらっている人だった。
正しいことは正しいし間違っていることは間違っているとはっきり言うけれど、その人自身を否定する言い方はしない。
だからボコボコになるけど気持ちがいいし、終わったあとは前向きになっている。
そのうえで、より良くなる方法を一緒に考えてくれる。
当時同じように人気があった起業家たちは派手な見た目にテンション高い人が多くて近寄りがたい存在だった。
そういう意味でもAは学校の先生のようなしっかりした雰囲気で信頼できそうに私には見えた。
かつて小学生のころ、そんな先生に出会ったことがあった。
厳しいけれど愛情深くて、この先生なら大丈夫だと子供ながらに信頼していた人だった。
大人になった今でも「あの先生いい先生だったな」と思い出すことがある。
人生のなかでそこまで記憶に残る人と出会える機会はそう多くない。
大人になるほど行動範囲は狭まって出会う機会すら失われていく気がする。
Aと知り合ったとき、どことなくその先生を重ねて見た自分がいた。
この人からビジネスを教わりたいと思った。
以来、Aにビジネスを伴奏してもらうことになったのだ。
つづく
...
追記。
今回の記事を書くのは難しかった。
モラハラは扱いが難しい。
感じ方は人それぞれであるし、相手がいることなので公には言えない部分もかなりある。
誰が見てもモラハラだとわかる場合もあれば、当人だけがそう感じているという場合もある。
私の場合は弁護士から客観的な意見をもらって判断した。(当時)
それ以外に、同じ状況にいた人たちが精神的に潰れていく姿を見ていたのと、Aから無理やり離れようとして裁判になったケースを見てきたのも判断基準になっている。
ただ、回想しているこの頃はまだ自分がおかしいと思っているし、モラハラだと思ってしまってごめんなさいという感覚である。
自分の経験からして、物事のジャッジが強いとモラハラするされるの関係性に発展しやすい気がしている。
正しいか間違っているか、白か黒かといった2択の判断である。
私はまさにこれで、あの人が正しくて自分は間違っている、自分が正しくてあの人は間違っているという思考になりやすかった。
それでは、また次回!