美しい日の記憶
驚くほど忘れっぽいな、という瞬間があります。
どんなことにもという訳ではなく、悲しいことや憤ったことなど、傷ついたことに関しての記憶が恐ろしくたどたどしい。
子どもの頃に色々生きにくかったという感覚は持ち合わせていても、具体的にどんな出来事があったのか、詳細は私の周りにいた人の方がよほど記憶してくれていて、話が出ると「あ〜そんなことあった気がする!」となる。
一種の危機管理能力のようなものなのかもしれません。
なんだとしても、覚えていないのだから仕方のないことだけれど。
でも楽しかったことや、美味しかったものなど、こと美しかった日のことはよくよく記憶しています。
もしかしたらいつかの私の脳みそが、そっち要らないからこっちに全振りしていこう!☆と決めたのかもしれない。
良い香りのする30円のコーヒー、歩くスピードの速い大好きな人に遅れを取らぬよう早足で歩道をわたった日の雨の香り、あの日の静かな海の色、なぜか美味しいと感じたいつもは飲まない薬の香りのするウイスキー、取材をすっぽかされたおかげで初めて入れた台湾の調味料屋さん、使ったことのない調味料を前に一生懸命麻婆豆腐の作り方を教えてくれる友人のお母さん、寝ている田んぼを一枚使って父が作ってくれた大きな迷路で妹とはしゃいだ日、母が初めて豆花を食べた時の笑顔、バイバイする時には必ずハグをしてくれる友人の温もり、パートナーと初めて行ったディズニーランドで「絶対また一緒に来ようね」と頷き合った夜。
全てが私を生かしている。
いまどんなに悲しくっても、この美しい記憶たちのことだけは誰にも奪えないのだから。
記憶の中では美しかった人が、突然私を切りつけてきたとしても、記憶の中で美しかった人は美しいままだ。
涙の止まらぬわたしを抱きかかえ、Tシャツをびしょびしょにされても文句も言わず。もしあなたに何かあったら命を投げ打って守るよと言ったあの人が、私から血が噴き出るのを見ても何もしてくれなかったとしても、記憶の中で美しかった人に泥を塗りたくらなくても良い。
わたしを守ってくれる記憶を消さなくっても良い。
美しかった人が今は美しくなかった、それだけの話なのだから。
それに少しすればまた私の傷はカサブタになって、忘れっぽい私はまた痛みをすっかり忘れてしまって、切りつけられるかもしれないことに少しだけ怯えながらそれでも勇敢にあなたに抱きつくのだろう。あの頃のように。
私を強く生かすのは悲しい記憶ではなく、美しいあの日の記憶だ。
生きることは地獄の連続だけれど、生き続ける人には美しく優しい記憶が味方する。
抱き続けて、生きる。
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