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光の方へ
たしかあれは高校生の頃。
英語の授業の一環として、外語を活用して働く社会人の方の講演を聞いた日のことです。
最後の質問コーナーで、私が事前アンケートで記入したものが採用されました。
質問の内容は、
「何かを決断するときどんなことを基準に決めていますか」。
「わくわくする方を選ぶ」とその方は答えてくれたのでした。
10年ほど経った今でも、こんなふうに思い出すくらい私にとっては印象的で、おそらくそれは単純な感心以上に「そう簡単にはいかんやろ〜」という反骨心のようなものがあったからだと思います。
だって、わくわくする方という理由で、進路を決めちゃえたらいいよね。
学費のこととか就職のこととか、「だってわくわくするんだもん」で全てが整ったらいいもんね、と。
少しささくれた気持ちが生まれたのです。
子どもにも大人にも、にっちもさっちもいかない状況というのは等しく存在する。
そこから目を逸らして進んで行けるほど、私やあなたは盲目的な作りにはなっていないと思うのです。
それで、「なんでこんな思いをしなくちゃいけないんだ」とたまにふと立ち止まって馬鹿馬鹿しくなったりする。
その辺の不都合も誤魔化せるようになる事が、大人になることだというのなら、おそらく私がそれを望むことはずっとないでしょう。
一方で、(年齢的には)十分大人になった今、あの時「わくわくする方を選ぶ」と話した大人の気持ちが少し分かるような気もするのです。
私が希望を語らなければ、誰がここにそれを創れるのだろうという気持ち。
だから子どもたちに、身勝手に希望を選び続けよと語りたい。
地獄を歩きながら、光を示し続けることの価値。
私が「愛はここにある」と歌い続けることと、さして変わらないのかもしれません。
わくわくする方とまでは言わずとも、前も後ろも分からぬ暗闇にいる誰かに光はこっちだと知らせたい。
波に揉まれ上も下も分からなくなった時、日の光に向かって浮き上がり、大きく息を吸い込んだあの日のように。
ただ、真っ直ぐに光の方へ。