散々なことが起きた日の掟
「今日は散々だったな〜」と思う帰り道。
やらかしたとか、ぶつけられたイジワルが頭から離れないとか、諸々の間(ま)が悪く踏んだり蹴ったりになったりとか。
足取りが重く、夕飯のことよりも1日の走馬灯が頭の中を支配して、ぐるぐるぐるぐる同じ事を考えてしまう時。
そんな時、これだけは譲らないと心に決めている掟があります。
「あんな事に私の大事な一日を『散々な日』にされてたまるか」
散々だったと感じたら、その日のうちに楽しい事もするということです。
記憶の上書き大作戦です。
本当に恐ろしい事だけれど、生き物は唐突に消えてしまうものだと潜在的に思っているので、私がもし今日消える事になってしまったら、私の命日は名実ともに「踏んだり蹴ったりで散々な日」ということになってしまう。
それだけは避けたい。
せめて、なんともない平穏な日か、楽しいこと「も」あった日を命日にしたいと思うのです。
方法はその日の思いつきによって変わります。
強いて言うならば、極力、散々な出来事でもない限りやらないような行動を選ぶ。
食事とお酒好きの私の場合は、
・少し良いお気に入りのお店でひとりで飲んでから帰る(コロナ前はほとんどこれ)
・ケーキを3つ買う
・ど平日にピザを買って帰り、部屋を暗くして映画を見る
・レイトショーを見てからラーメン食べて帰る
・道端でケバブを食べる
大体、こんな感じです。笑
このタダでは転んでやらない精神は、はてどこから来たものかと考えていると、ある事を思い出しました。
子どもの頃、学校で嫌なことがあり帰宅すると、私は夕飯の支度をする母に向かって一連の出来事を報告していました。
母は、「え〜ひどい!」「なんてこった」「それはびっくりしたでしょう」などと気の済むまで話を聞いてくれ、私が落ちついてくると決まってこう聞くのでした。
「今日はどんなおもしろいこと/楽しいこと/嬉しいことがあった?」
私は「え〜なんかあったかなぁ」なんて言いながら、登校からおもしろいこと探しの走馬灯を流し始めます。
あ〜そういえば、こんな花が咲いてた。おもしろいまゆげ犬がいた。行間ランニングが中止になってラッキーだった。理科の授業でこういう事教わったんだけど、お母さん知ってた?
散々な出来事は幅をきかすので先に出てきがちだけれど、思い返してみると意外と良いこともあったりするのでした。
「そんな事を知れたなんて、今日はかなりレアな日だったね」
そんな風に言われ、散々な日だったはずが、「結構良い日」にいつの間にか上書き保存されたりもしたものでした。
さてそんな事を書いた今日はというと、出先で唐突に保険の営業マンに追いかけ回され、日傘は強風に煽られ、かぶっていたキャップが風に舞い吹っ飛んでゆき、しまいには立ち去ろうとする私に「携帯電話の番号だけでも教えて」と言うその人に「勘弁してください」と言うなど散々でした。
あの人本当に営業マンだった?という疑問はさておき、帰り道私は掟に乗っ取って、缶ビールと焼き鳥を5本買って帰り、録画していたドラマを見ながら昼間から一杯やりました。
「うまいっ!」とかいう頃には、散々な出来事はつまみの一品に。
散々な日だったけど、楽しいこともあった日に早変わりしてくれました。
日常と折り合いをつけながら、こうやって生きてく。