利島っていうフシギアイランド🍠
こんにちは、えりんぎです。
2020年。コロナ禍の世の中。一年前には想定していなかった状況が2020年には広がっていました。
そんな2020年も後1ヶ月で終わりを迎えようとしています。2020年。
皆さんはどのような年になりましたか。
「当たり前が当たり前でないことを知った」
「一年前の当たり前が恋しい」
そう思っている人も少なくないと思います。私も去年の当たり前の生活が恋しい人間の一人です。
そんないつもの「当たり前」ではなかった2020年。
しかし当たり前でなかったからこそ出会えた人、出会えた場所、出会えたもの、出会えた考え方ってあると思いますがあると思います。
その2020年だからこそ出会えた場所は「利島」でした。
私、社会の全てって理解することって不可能に近いことだとずっと考えていたんです。
いつからか分かりやすいパワーバランスが可視化されている状況を見つけると「社会の縮図」だとか
人口が少ない地域の社会を知ると「社会の縮図」とか
自分の勝手な社会の縮図を作ってきていたと思います。
でも最近気づいたんです。社会の縮図っていうのは
「社会が見える化されている社会のこと」
なのではないかと。
そう考えるようになったのは利島との出会いです。
東京都利島村。
利島。
利島。
なんて読むんだ?りしま?りとう?
この場所との出会いはそんなところから始まりました。
「利島」は伊豆大島のお隣に位置する伊豆諸島の離島の一つです。
人口300人ほどの小さい島ながら、300年続く椿産業の担い手で、その生産量は日本一を誇っています。
自分が東京にいることを忘れてしまうほどの自然との距離の近さ、人々の受け入れてくれる暖かさ、太陽を近くに感じられる場所です。
そんな利島の生活は全て「見えて」くるんです。
島のコンビニのような存在になっているJA農協で働く人々
住所を東京都利島村、名前を書けば郵便物は届くような島の郵便局で働く人々
生徒との距離が近い小学校の先生たち
Iターンで入ってくる若者たち
島と外の社会を繋ぐ大きな役割をになっている大型汽船、ジェット船、ヘリコプターを支える人々
全て働いている人たちが顔見知りで、どうやって島の社会が回っているのか見えてくるんです。
社会を回すのに必要な業種に必要な人数の人々が従事している社会が利島には広がっていて、顔見知りが社会を動かし、経済を動かしている社会が見えてくるんです。
社会の見える化、社会の顔見知り化って本当に重要で、ただどこで働いている従業員ということでなく「人」として一人一人に接することのできる社会が成り立っているということを実感できます。
一人一人が社会を支えている意識、支え合っている意識、これが芽生えるか芽生えないかの違いは社会が見えてくるか見えてこないかの違いだと感じました。
都会や都心に住んでいると、社会を支えるそれぞれの人々の役割が細分化し、それ以上に誰がどこで何をやっている人なのかを全て把握することのできない社会が広がっています。
たった今電車の隣に座った大人は赤の他人で、どこで何をしている人なのか、想像もつかないと思います。
同じレストランで隣同士になった人がどういう人間なのか知ることはできないと思います。
見えないからこそ他人に対する恐怖が広がり、他に関心を寄せない社会が形成される。
都心でもある程度見える化されている社会は広がっています。
会社、学校、友達、アルバイト先、家族。
しかしそれらは社会の中にあるコミュニティーの一つなんです。
大都会で社会を全て知る、社会を支えている人を全員知ることは不可能に近いと思います。
社会が見えない社会であるからこそプライベートが保たれる、人の目を気にせずに自分のやりたいことがやれる、社会的な縛りが少ないなど様々な良い面はあります。
しかしプライベートを守ることと同時に他の人、自分のことを知らない人との距離が生まれてくると思います。
距離が生まれること、それぞれのプライベートを守るために無関心が生まれ、それが社会への無関心の卵を産んでいくのではないでしょうか。
都心の良さもあると思いますが、やはり見える化されている社会は暖かい。
コロナ禍の今。私は改めて人々の繋がり、人は人に支えられている生き物であることを理解したと思います。
そういう考えをくれたのが利島でした。
利島は私にとってコロナ禍だからこそで得た場所です。もし2020年、コロナもなくて今まで通りの生活をしていたらおそらく利島に行こうとも思うことはなかったと思います。
利島に行っていなかったらあの素敵な人たちとも出会っていない。あの大自然を身近に感じる幸せも感じる経験ができていない。
そう思うと新しい生活様式、当たり前が奪われた世の中にも素晴らしさが散りばめられているんですね。