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「セックスは常に既にジェンダーである」を私なりに説明したツイートのまとめ。

Twitterでフォロワーのnanaさんから「『セックスはつねにすでにジェンダーである』『ジェンダーがセックスを規定する』あたりの話を平易な日本語で教えていただけると嬉しいです…!」と仰って頂いたので、私なりに答えたツイートをコピペしてまとめてみました。英語が混ざっているのは、日本語訳がわからなかったからです。

全くのノープランで喋り始めた即興芸みたいな内容なのでイマイチまとまりがありませんが、何かの役に立てば嬉しいです。絵が下手なのは気にしないで下さい。

カントは解釈が難しいのですが、なんとなくでもカントが分かれば、カント以降の思想はなんとなく理解できるようになると思います。


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まず、一般的に私達はこの世界には様々な物体が存在していて(林檎とか猫とか建物とか)、それらは人間の精神とは独立して存在してると考えてますよね。例えば猫は人間が存在していようといまいと、猫として独立して存在している。明日突然全人類が消滅しても、猫は存在し続ける

こういう考え方を、形而上学ではRealism(実在論)といいます。そして、そういった人間とは独立した存在である物体を知覚(Perceive)することで、我々は世界について知ることが出来るのだ。こういう風に考えますよね。

絵にするとこんな感じです。人間とは独立して存在する物体を直接知覚するという考えをdirect realismとかnaive realismと言います。

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でもここで「ちょっと待って。錯視や幻覚についてはどう説明するの?物体を直接知覚するんだったら、錯視はあり得ないことになる。幻覚は、存在しないものを見てるんだから、直接知覚する物体が無い状況では知覚は不可能なんだから、幻覚はあり得ないことになるのでは」と言い出す人が出ました。

錯視や幻覚といった事象の説明をするために、「人間が実際に知覚してるのは、物体そのものじゃなくて、物体によって引き起こされた(Cause)心的イメージなんだ。だから、我々は直接物体を知覚してるんじゃなくて、自分の頭の中の像を知覚しているんだ」という考えが出てきました。

絵にするとこんな感じです。デカルトとかロックとかは、このmental imageをideaと呼びました。こういう考え方をindirect realismと言います。

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自分の頭の中に映画のスクリーンがあって、外の世界がそのスクリーンに映し出されてるのを見てる、みたいなメタファーでよく表現されます。

この考え方だと、我々が知覚出来るのはあくまで人間の頭(精神)の中にある像だけですよね。人間の精神の外の世界を直接知覚することは出来ない。外の世界の物体が、本当にメンタルイメージと同じ姿をしているのか確かめる方法はない。

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自分の頭の外に出て、自分のメンタルイメージと外の世界の物体を比較することは出来ないので。論理的な可能性としては、我々が知覚してるものは全て、実際の物体そのものとは全く違うものなのかもしれない。

マトリックスという映画がありますよね。Indirect realismという考え方だと、ぶっちゃけ我々がマトリックスの世界の中にいる可能性も論理的には除外できないんですよ。人間とは独立して存在する物体を直接知覚することは出来ないので。

これもありがちな比喩ですが、人間の精神とは、外の世界を正しく映し出す鏡の様なものであるというのがIndirect realismの肝なんですけど、鏡像が正確なものかどうかは実際の対象と比較してみないとわからない。

けれど、比較するためには人間の精神と人間の精神とは独立して存在する物体を見渡せる視座が必要になる。けれど、人間は原則的にそんな視座を持つことは不可能です。自分の頭の外に出ることは出来ないから。

ということは、我々が普段知覚してるものと、「実際の世界」とは全く別の姿をしていたとしても我々にはわからない。これは哲学者としては非常に重大な問題なんですね。古代ギリシャの昔から、哲学者は「真実」を探求してきたのに、人間が世界の真実の姿を知ることは不可能なのかもしれないから。

これはヤバいと思った哲学者たちが色々解決法を考えました。例えばデカルトは、瞑想禄の一章と二章で、我々が現実だと思っている物は全て、Evil demonが見せている夢なのかもしれない。実は我々は人間の肉体すらもっていないのかもしれない、と考えました。マトリックスの元ネタですね。

その後Deniel Dennettという人がThe brain in a vatという比喩を用いました。悪の科学者が我々の脳を直接操作して我々には手や足が存在して身体を動かしてると思わせてるだけで、実は我々は水槽に浮かんでる脳だけの存在かもしれない。SFでありがちな設定ですね。

まあデカルトは色々御託を並べるんですけど、最終的にはCogito ergo sum(我思う、故に我有り)という結論に至る訳です。このコギトというのは、精神とか魂(Soul)のことで、要するにデカルトにとっては人間の本質とは人間の精神のことなんですね。

そして、人間の精神とは独立して存在しているものをMatterと呼びました。そして、人間の身体はMatterであると主張しました。人間とは、MindとMatterの合体したものであるというのですね。これがデカルトの物心二元論です。後に、Gilbert RyleがGhost in the machineと表現しました。

デカルトによると、我々が夢を見ているのではなく、現実に肉体を持っていることを知ることが出来るのは、善なる神が我々をだますことなどありえないからです。要するに、「神様がちゃんとシステム設計してくれてるから、ちゃんと真実に辿り着けるよ」ということですね。

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カルテジアン的な物心二元論を批判云々とよく言われるのは、このデカルトの身体-精神観を指してるんですね。カルテジアンというのはデカルトのラテン語読みです。

デカルトの物心二元論は色々問題点があるので、この解決法では満足しない哲学者が沢山いました。バークリはその一人で、彼は「どうせmatterを知覚することが出来ないんだったら、ぶっちゃけmatterが存在すると考えなくてもよくない?別に無くたって変わらないでしょ」と言いました。こんな感じで。

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バークリによると、存在するのは精神とideaだけで、matterは存在しません。我々が知覚したものが存在するのだ、という訳です。esse est percipiがスローガンです。この時代の人すぐラテン語使ってくるんですよね。

それじゃあ我々人間が知覚してないものは存在しないの?知覚する人間がいないのだから、無人島なんてありえないということ?と思うでしょう。でも大丈夫。我々人間が知覚してない時でも、神は常に世界を知覚しているので、神が存在する限り人間に知覚されないものも存在するんです。

これをidealism(観念論)と言います。存在するのは精神(神も人間も精神です)とideaだけなのです。

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この時点でヤバいなと思いますが、これがもっと突き詰められると、神も他の人間(の精神)ですらも自分のideaだという考え方に辿り着きます。存在してるのは自分と自分のideaだけ。自分が見て感じたものだけが現実なんですよ。これをsolipsism(独我論)と言います。

ここで登場したのがカントです。カントは研究者の間でも未だに解釈の違いで血で血を洗う争いが起きているらしいのであんまり確かなことは言えないのですが、大雑把に言うと彼は以下のように考えました。

今までの哲学者(ヒュームは除く。カントはヒュームに強く影響を受けたのです。ヒュームも大変重要な哲学者なのですが、またいつかの機会に)の間違いは、人間の精神(Mind)とは物体(Material object)をただ映し出すだけの、受け身の器官だと考えたことだと。

イメージとしては、物体というスタンプが精神という白紙にぽーんと押される感じです。人間の精神は、ただ外からの刺激を記録するだけの受け身の器官だと考えたことが、それまでの哲学者の間違いだとカントは思ったのですね。ここでカントは発想の逆転をしました。

人間の精神が現実を映す鏡なのではなく、現実が人間の精神を映す鏡なのだ、と。
人間の精神が能動的に現実を形作っているのならば、精神と現実の間の齟齬は生まれない。人間の精神の中身がそのまま現実の物体となって存在するのだから。こう考えれば真実に辿り着けるとカントは考えました

イメージとしてはこんな感じです。

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天動説を否定し地動説を提唱したコペルニクスのように、カントは発想の転換をしたのです。これがかの有名なコペルニクス的転回です。

カントの天才的なところはですね、我々の経験(Experience)というものは、我々人間とは独立した外部と我々人間の知覚の混合物であると提案したことなんですね。これの何が素晴らしいかって、観念論(Idealism)や独我論(Solipsism)は完全に人間の主観(Subjectivity)しか存在しなかったじゃないですか。バークリの場合は神様が客観性(Objectivity)を担保してましたけど、実際存在してるのは全部精神的なもの(The mental, Res cogitans)だけで、物理的なもの(Res extensa)、つまり精神とは独立して存在してるものなどない訳です。

その意味では全てが主観の海の中にあり、客観的なもの(つまり、主観の外にあるもの)は存在しないのです。

カントはどうしても知覚において客観性を担保したかったんですね。そこで、我々は外在世界をありのまま知覚するのではなく我々に理解できるように整理整頓してから知覚するのだと言いました。

ありがちな比喩ですと、我々は人間専用の眼鏡を常にかけてる状態に喩えられます。我々はその眼鏡を通してしか世界を見ることが出来ないんですね。でも、知覚する対象(外在世界)はあるんです。ただ、眼鏡を取った状態で知覚することは出来ない。「ありのまま」の世界を知覚することは出来ないんです。

そうですね。人間専用のフィルターや色眼鏡があって、それを通してしか人間は世界を知覚できないのだ、みたいな感じです。

カントによると、我々は決して「ありのままの世界」を知覚することは出来ません。この世界をカントはNoumenaと呼びました。我々が知覚できるのは、あくまで我々専用レンズを通した世界です。こちらをカントはPhenomenaと呼びました。我々はPhenomenaの物体(Object)を直接知覚することが出来ます。絵にするとこんな感じです。

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カントによると我々が知覚する物体はIntuitionと呼ばれるEmpirical given(視覚データみたいなものだと思ってください)が人間の持つConceptによって人間にも知覚できるようにフォーマットされたものなのです。これがカントのTranscendental idealism(超越論的観念論)です。絵にするとこんな感じです。

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(ここで「Noumenaを視覚データ化したものをさらに人間のレンズつきの見え方によって知覚されるって感じですか?」という質問を頂きました。以下が質問へ答えたツイートのまとめです。

人間はNoumena自体を知覚することは出来ないのですね。でも、NoumenaをIntuitionとい状態で経験(知覚)し、そのIntuitionにConceptが形を与える。Conceptが鯛焼きの型なら、Intuitionは鯛焼きの生地みたいなものです。でも、その生地ですら、あくまで人間の鯛焼きの型のための生地なんです。

だから、実はIntuition自体も人間専用にある程度フォーマットされてるのですね。NoumenaもPure form of intuitionによって人間用に変えられているのです。カントはこのPure form of intuitionとは時間と空間であると言いました。人間が知覚できるものは全て時間と空間に存在しています。

つまり、時間と空間に存在している物しか知覚できない。人間が知覚するには、時間と空間という舞台が必要である。それ故に、Intuitionは常に時間と空間というフィルターを通して経験されるのです。だから、もしかしたらNoumenaには時間も空間も存在しないかもしれません。存在するかもしれませんが、我々人間はNoumenaに到達することが出来ないので、実際の所時間と空間というものが人間特有の概念なのか、それとも人間とは独立した存在であるのかを知ることは永遠に出来ないのです。)

人間のConceptはあくまで人間のConceptなので、宇宙人などの知的生命体が存在するのなら、宇宙人特有のConceptがあります。(カントは宇宙人の存在を信じていたらしいです)だから、同じNoumenaを見ていても、人間と宇宙人では全く違ったものを知覚しているのかもしれません。

NoumenaをNoumenaとして知覚できるのは神様くらいです。絵にするとこんな感じになります。

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この、「現実が人間の精神を反映するから、ある意味では人間が現実を形作っている」というカントの考えがカント以降の思想において重要になります。カントのスローガンはGedanken ohne Inhalte sind leer, Anschauungen ohne Begriffe sind blind.です。このスローガンは確かその後カルナップがパロってました。

カントの後にはポストカンティアンの哲学者がいて、ドイツ観念論の人達とかショーペンハウアーやニーチェがいるんですね。この辺からアングロ・アメリカ圏(英語)と(ヨーロッパ)大陸圏とで哲学の伝統が分かれてきました。

ここから100年くらい飛ばします。

20世紀の初頭に(主にアングロ・アメリカ圏で)Linguistic turnと呼ばれるものがあったのですね。「これからは言語の時代だ!」と思った哲学者がいっぱい出てきたのです。

これまで話してきた哲学者って、「知覚」(Perception)の話をしていたじゃないですか。外在世界の知識を得る上で、感覚器官(視覚や聴覚)を重要視していました。だから精神と身体の話に焦点が当たっていた。でも、知識の獲得においていかに「言語」が重要な役割を果たすのかに注目すべきだと考える哲学者が出てきたんですね。所謂言語哲学の始まりです。

フレーゲ、ラッセル、前期ヴィトゲンシュタインといった、初期の言語哲学者にとって、言語とは現実を映す鏡のようなものだと考えました。

精神が現実を映す鏡であると考えていたのが、今度は言語が現実を反映していると考えたのですね。例えば、「地球は丸い」という文章があります。地球が丸いのは事実なので、「地球は丸い」という文章(命題)は真ですよね。これは、「地球」という名詞が地球を、「丸い」という述語が実際の地球の特徴(球形であること)を指示しているから、つまり、「地球は丸い」という文章が、地球は丸いという事実を正確に反映しているからだと考えたのです。

ここまではデカルトとかバークリと同じ発想ですよね。精神が言語になっただけで、基本的に人間とは独立して存在してる世界があり、その世界には色々な物体があって、時にはそれらが集まって大きな構造を形成している。太陽系なんかは一つの構造ですよね。恒星や惑星といった構成要素があって、それらが軌道に沿って公転してる。人間の言語はそういった現実を正確に反映しているのだ、という考え方です。勿論言語の違いがありますが、この辺の人達は、文化ごとに異なった言語の他に、人類全体に共通した言語があるのだと考える人が多かったです。チョムスキーのUniversal grammarみたいな。

でもここで後期ヴィトゲンシュタインが出てきて言いました。「言葉の意味とは使用である」と。単語の意味とは「猫」が実際の猫を指示するような関係ではなくて、ある言語体系においてその言葉がどう使われるかによって決まるのであると言ったのです。チェスのゲームのルール内においては「ビショップ」というのは特定の意味(特定の動きが出来る駒)を持つじゃないですか。でも、これが別のゲームだったら「ビショップ」はまた別の意味を持つ(ほかにビショップを使ったゲームがあるのかは知りませんが(;´・ω・))。言葉を話すというのは、その言語のルールに従ってゲームをするようなものである。

違う言語を喋るということは、違うゲームをしているようなものである、と後期ヴィトゲンシュタインは考えたのです。これをヴィトゲンシュタインは「言語ゲーム」と言い表しました。私とnanaさんは日本語という言語ゲームのルールに従って会話していますが、私が英語で話す時はまた別の言語ゲームのルールに従って会話しているのです。

後期ヴィトゲンシュタインの影響を受けて、言葉の意味だけでなく、現実も言語によって決定されると考えた人達がいました。カントのConceptと同じ発想なんですけど、彼等の場合は喋る言語によって違う現実が出来上がると考えたのです。クワインはConceptual scheme、カルナップはLinguistic frameworkという概念を用いました。大雑把に言うと、天動説に関する語彙がある言語と、地動説に関する語彙がある言語では、それぞれの話者は異なった世界に生きてるみたいなイメージです。

ここからが肝なんですけどね。カントやカルナップ、クワインの研究者たちが血で血を洗う解釈戦争を繰り広げるのが次のポイントなんですよ。言語によって現実が形作られるなら、現実ってそんなにふわふわしたものなの?現実というのは、実はスライムみたいに名状しがたいもので、人間の言語によって初めて形が与えられるものなの?と。

これがRealism-Antirealism論争です。私達は今まで現実(人間とは独立して存在するもの)には形というか構造があると仮定して喋って来たじゃないですか。でも、もしかしたら現実というのは本当は形がない鯛焼きの生地みたいなもので、人間によってはじめて形が与えられているのではないか。だとしたら、人間の言語(思考)が変化すれば、現実(の形)もそれに伴って変化するのではないか。

という疑問が出てくるわけです。

カントの時にnanaさん色眼鏡のイメージと仰ってたじゃないですか。これも同じようなもので、言語が色眼鏡みたいなものだから、違う言語を話すということは色の違う色眼鏡をかけて世界をみているようなものだということなんですね。私が青いレンズの眼鏡、nanaさんが赤いレンズの眼鏡をかけていたとしてそれで二人が目の前の花壇を見たとするじゃないですか。同じものを見てるのですが、私は青い花が見えにくくなるし、nanaさんは赤い花が見えにくくなる(多分)。花壇そのものは私達とは独立して存在してるけど、二人の見てるものは微妙に違う訳です。

でも、ここから「いや、実は花壇なんてないんだよ」と言い出す人が出てきたのですね。色付きレンズどころの話じゃなくて、かけている眼鏡次第で実際に見える物体が違うのだというのです。だから私の眼鏡では花壇が見えてるかもしれないけど、nanaさんの眼鏡では洗濯機が見えてるかもしれないのです。

絵にするとフレーゲ、ラッセル、前期ヴィトゲンシュタインがこんな感じで

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カルナップやクワインがこんな感じです。彼らが実際にどちらのスタンスだったのかは解釈が分かれるところです。

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今まで話してきたのはアングロ・アメリカ(英語)圏の流れでしたが、同じような発想の思想がヨーロッパ(フランス)にもありました。

ここで構造主義の登場です(やっと!!)
フーコーやデリダ、ソシュールやアルチュセールといった人達はここで出てきます。

構造主義は物理的、自然科学的な現実ではなく、人間社会という現実に焦点を当てました。構造主義者は、人間社会は物質的な関係(人間関係、社会関係、経済関係)等が一つのシステム(構造)を作っていると考えました。人間社会という現実は存在すると考えた点で、Realistと言えるかもしれません。

構造主義者にとって、人間の活動(文化や言語、思考など)は普遍的な構造に裏付けされています。人間の活動は多種多様に見えるけど、その裏には普遍的な真実(Universal truth)があると考えたのです。

図にするとこんな感じかな?そろそろイラストのネタが尽きてきました。

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ポスト構造主義は簡単に言うと構造主義の否定です。ポスト構造主義者にとって人間の活動というのはdiscourse(ディスクール・言説)によって構築されていて、普遍的な真実というものは存在しない(あるいは存在しても人間には不可知である)のです。だから、言説の数だけ真実があることになります。

ポスト構造主義者にとって具体的な現実というのは存在せず、異なる言説が異なる現実を形作るのですね。でも、言説というのは当然人工的なものだから、言説の性質を変えることは可能です。つまり、言説を変えることが出来れば現実も変えられるのです。

とりあえずこれで400年分くらいの思想史の一端をさらってみたのですが、ここまでどうでしょうか。こういう大きな思想の流れを踏まえて、次はいよいよセックスとジェンダーの話になります。


取り敢えずここまででRealismとAnti-realism、そしてIdealismの違いは分かって頂けたでしょうか。

基本的に私達は普段Realismを前提として物事を考えてるんですね。自然科学なんて基本的に「人間とは独立して存在している自然界」を研究対象にしてる学問ですから。

だからセックスとジェンダーの話も、基本的にはRealismを前提としてるんですね。セックスというのは生物学的性のことなのだから、生物学的性は人間とは独立して存在している、と。

では、生物学的性が人間とは独立して存在しているとはどういうことなのでしょうか。

Realismの時にobjectの話をしたじゃないですか。このobjectというのを形而上学の専門用語ではparticular(個別者)と言うんですね。

個体みたいなものだと思ってください。その辺の物体は大体全部このParticularです。私の持ってるパソコンもそうだし携帯もそうだし机もそうです。

で、このParticularはそれぞれProperty(性質)を持ってるのですね。例えば机だったら、木製だとか茶色いとか長方形だ、などといった特徴があります。

この絵で言うと、それぞれの机はparticularで、赤い机はthe property of being redを持ってるし、丸い机はthe property of being circularを持っています。

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Particular(個別者)はProperty(性質)を持っていますが、色んな個別者が共通の性質を持つことが出来ますよね。例えば、地球、野球のボール、ビー玉は、全て異なる個別者ですが、「丸い」という共通の性質を持っています。「丸い」という性質はシンプルなものですが、もっと複雑な性質もあります。こんな感じで。生物分類に関する性質は「自然種」と呼ばれます。

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世界中の猫は、この「猫」という性質を共有しているために猫なのです。全ての猫に共通した特徴と言い換えてもいいですね。

さて、この「猫」という性質は、人間とは独立した存在であると考えるのが一般的です。明日突然人間が絶滅しても、猫は存在し続けるし、猫が存在し続ける限り、全ての猫に共有されている「猫」という性質は存在し続けるはずです。「猫」という性質はRealなのです。


しかし、性質にはこういったRealなものだけでなく、人間が作り出したものもあるのです。例えば、「ペット」というカテゴリーがありますよね。「ペット」というカテゴリーは人間が作り出したものなので、明日人類が絶滅したら、「ペット」というカテゴリーも存在しなくなります。ペットを愛玩する人間が存在しないんだから、愛玩動物という概念も存在しなくなるわけです。

性質には複雑なものもあって、例えば「哺乳類」であるという性質は、更に色々な性質(脊椎動物である等)から構成されて「哺乳類」であるという性質になっています。

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この「哺乳類」であるという性質は人間とは独立して存在しているので、明日人類が絶滅してもこの性質は存在し続けます。でも、人間が適当に性質を組み合わせて、新しい性質を作ることも出来る訳です。私が今適当に「ロンドン動物」という性質を作りましたが、この性質も全部でたらめという訳でもなく、実際に存在する(Real)な性質(動物である等)を私が今作ったルールに基づいて選択して作り出した性質です。でも、私が作った性質なので、人工的(Artificial)だし、明日私が死んだらこの性質は存在しなくなります。でも、こういった人工的な性質でも、社会全体に共有される場合もあります。

そうなると、その性質はSocially constructed(社会的に構築された)になります。これだと社会全体に共有されてるので明日私が死んでも残り続けますが、明日人類が滅亡したらなくなってしまいます。

さて、ここでやっとセックスとジェンダーの話になります。長い道のりでした。セックスとジェンダーも性質です。セックスは「生物学的メス」であるという性質、ジェンダーは「女らしい」という性質とでも言いましょうか。

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以前はセックスもジェンダーも人間とは独立して存在するRealな性質だと思われてきました。「生物学的雌」であるという性質だけでなく、「女性性(女らしさ)」もRealな性質であり、明日人類が絶滅しても存在し続けると。更には、ジェンダー(女らしさ)の原因はセックスであると考えられていたために、「生物学的雌」であるという性質を持っているということは即「女らしい」という性質を持つことに繋がると考えられていたのです。セックスがジェンダーを決定するのですね。これがBiological essentialism(生物学的本質主義)です。

でも、これはおかしい、Anatomy is not destinyだとフェミニストが言い出しました。セックスがFemaleなのと女らしさには何の繋がりもない。だって、ジェンダーは私の「ロンドン動物」という性質みたいに、人間が勝手に作った性質なんだから、と。

「女らしさ」というのは、「感情表現が豊か」とか「細やか」という性質を、人間が「女らしさ」というラベルの下に勝手に分類して作った人工的な性質なのだと主張したのですね。ジェンダーは社会的に構築されているのだーというわけです。

ついにバトラーです。ここまで付き合っていただいてありがとうございました。もっと簡潔に説明できた気もするのですが、私の修行不足でここまで長い話になってしまい申し訳ないです。

さて、バトラーの有名な「セックスは常に既にジェンダーである」という主張です。

ここまでで多分予想が着いたと思いますが、まずバトラーはセックスも社会的に構築されたものであると主張したのですね。これまでは、セックス(生物学的性別)としての雌雄/男女の区別はRealなものである、つまり明日人間が絶滅してもその区別は存在し続けると思われてきました。

セックスとしての女が存在するから、その「女」にジェンダーとしての「女らしさ」が課せられ、セックスとしての男が存在するから、その「男」にジェンダーとしての「男らしさ」が課せられると考えられてきました。二つの異なる形をしたキャンバスの上に、それぞれ異なった種類の絵の具で絵が描かれるみたいなイメージですね。それぞれのキャンバスの形は違っているし、その違いは人間が作ったものではなく、元々存在するものだと考えられてきました。それがセックスがRealだということですよね。でも、バトラーはそれに異を唱えたのです。

バトラーによると、セックスというキャンバスの上にジェンダーという絵の具が塗られるのではなくて、ジェンダーという絵の具が塗られるキャンバスがセックス(というか生物学的な身体)なんです。ジェンダーという絵の具を受け止められるから、セックスはセックスとして我々に認識されるのです。

四角いキャンバスがあるから、その上に絵の具を乗せても四角いキャンバスになるんじゃなくて、絵の具で四角を描いたから四角いキャンバスになる、みたいな。

バトラーではPerformativityという概念が重要なんですね。私達は普段の生活や行動でジェンダーをPerformしてるんです。例えば、男性との会話で女性がつい聞き役に回ってしまうというのも、ジェンダーをPerformしてることになります。

そして、そうやってジェンダーをPerformすることで初めて「女の身体」(あるいは男の身体)が生まれる。ジェンダーをPerformすることがセックスを生み出すんですね。だからこそ、セックスは常に既にジェンダーなんです。


これが、私なりの「セックスは常に既にジェンダーである」という主張の説明になります。


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