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母と風船爆弾

人生には3つの「坂」がある。
上り坂、下り坂、まさか、だ。
「まさか」だらけの母の人生。
今日はその第一弾。
テーマは敗戦だ。

母は、1930(昭和5)年、小倉市(現在の北九州市小倉北区)に生まれた。祖父は貿易会社を経営するモダンな紳士。祖母は芸者さんと間違われるような美人だったとか。

幼い頃は、女中さんが三人も仕える屋敷暮らし。当時はまだ珍しかった革靴を履き、ハイヤーに乗る生活。降りる時には女中さんが抱きかかえ、雨が振りだすと女中さんが傘をさしかけてくれる。夜は中国から来た料理人を自宅に呼んで鍋を振らせ、テーブルにはあふれんばかりの山海の珍味が並ぶ。

蝶よ花よというそんな生活も、戦争の足音と共に消滅する。優しくしてくれた女中さんたちは皆、郷に帰り、母たち女学校の生徒たちは「学徒動員」として、1日12時間もの長時間労働を強いられることになる。

「小倉陸軍造兵厰(ぞうへいしょう)」は、
当時、西日本最大級の兵器工場だった。
地上と地下にまたがる巨大な軍事拠点として
最盛期には4万人の人間が働いていた。

1945(昭和20)年8月9日
長崎に投下された原子爆弾(ファットマン)は
本来は小倉陸軍造兵厰を破壊する目的で、
小倉に投下予定だった。
80年前、あの夏の日。
二つ目の原子爆弾が予定通りに小倉に投下されていたら…?
母はまさに爆心地にいたことになる。

戦況が悪化の一途をたどる中、軍の極秘プロジェクトとして、母も従事させられていたのが「ふ号作戦」だ。ふ号作戦とは、「風船爆弾」によるアメリカ本土攻撃のことで、1944年秋から1945年春まで実施された。爆弾を気球にぶらさげ、偏西風に乗せてアメリカ本土まで移動させ、落下させるという、“超”がつくほどのアナログなやり口だ。

その気球部分を母たち女学生は、日々、作らされていた。材料は和紙とこんにゃく糊である。
小判の和紙を三枚。
大判の和紙を二枚。
延々、この組み合わせで、こんにゃく糊を使い、ひたすら和紙を貼り合わせ、巨大な気球にしていくのだという。

ガス工場のタンク(ガスホルダー)を見るたびに、「風船爆弾を思い出すからイヤだ」と、
母はよく自身のトラウマを吐露していた。それくらい、造兵厰での1日12時間の強制労働はつらかったらしい。地下の工場に入っていく前には、「ピンク色のあやしい錠剤を飲まされていた」と。「眠くならないための薬だから飲め」と言われていたらしい。

わずか14歳や15歳の女学生までも、兵器製造にかりだし、日に12時間も働かせる当時の状況は、今の私から見たら異常だが、「勝った、勝った、また勝った」と嘘っぱちばかりの大本営発表に洗脳されていた一般市民は、だれひとり日本が負けるだなんて夢にも思っていなかっただろう。

しかし、「まさか」は起こった。
日本は負けたのだ。

「もう空襲警報に怯えることなく、今日からはぐっすり眠れると思うと嬉しかった」
母は私に敗戦の日の思い出を語っていた。

ぐっすり眠れた日々もつかの間。
戦後、小倉の町にも進駐軍がやってくることになる。
【次回へ続く】

★掲載写真:2023年8月15日 西日本新聞より


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