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誰かの分までなんて生きられないから

2011年3月10日、会津若松駅に降り立ったときの写真。
ガラケーにて撮影。
翌日11日に、喜多方の高校で授業の仕事があり、前日に現場入りするために磐越西線に乗ろうとしているところだ。

毎年訪問していた場所。
この日も、翌日15時の授業終了前に起こる出来事のことなど予想もしていなかった。
予想もしていなかったけれど、その出来事は突然に起きて、私は3日後には東京に戻ってきてしまい、それから8年が経過した。

毎年思う。
あのとき、あれから、私に何ができたのだろう。
さっき、「東京に戻ってきてしまい」と書いた。
あのとき「戻ってきてしまった」と感じたのだった。
仕事仲間や知り合いに、あの場所が生活の場だった方々が大勢いる。
その方々のことを思うと、大した被害がない場所に戻ることに、罪悪感のようなものを感じていたことが、今でも小さく心をかすめる。

「亡くなった方の分まで生きなければならない」
たまに人から言われてしまうことがあるけれど、あなたがそう思うのは勝手だけれど、私にはそんな差し出がましいことは言えない、と飲み込む。
誰かの分まで代わりに生きることなんて、私にはできない。

あのあと、私に何ができたのか、と言えば、
東京に自主避難されていらした方や、仕事を求めて移住をされていらした方に向けて、こちらでの生活のことや、仕事のことに関する相談をさせていただいたり、再び高校に授業に出向いたことくらいだ。

それくらいだ。
でも逆に言えば、誰かの代わりに生きることはできないけれど、自分にできる範囲で、小さくできることはある、ということでもある。
これから自分に何ができるのかを、小さく考えることにする。

毎年テレビであのときの映像が流れるけれど、その後の現状を、密度濃く報道しているものは少ない。
見ていて、取材対象者に負担を強いているだろうと容易に想像できる映像もあり、心が痛む。

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2016年4月に郡山に旅行に行った。
現地の仕事の先輩に案内してもらって、美しい場所を巡った。
あの日、私が東京に帰るのを手伝ってくださった方々たちと、現地で再会できて嬉しかった。

今度は、今も困難が続く場所をこの目で見たいと思っている。
この目で見ないと腹落ちしないのだと思う。
あの日、メルトダウンのニュースを現地で聞きながら、気分が悪くなってしまい、立ち上がることすら困難になったときのように。

何ができるかを、小さく考えるきっかけをつかむための旅は、あの日あの場所にいた者として、必要なものだと感じている。

誰かの分までなんて生きられないのだから、自分にできることをする。

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汐見英里子
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