冷蔵庫を手放すことで起きた、暮らしの革命
誰の家にもあるであろう冷蔵庫。炊飯器を土鍋に変えたことで、食事ごとにご飯を炊き、作り置きをせずに毎回作ることに慣れてきた頃にふと頭をよぎったのが、「冷蔵庫を使わなくてもなんとかなるのではないか」ということだった。
そして実際に冷蔵庫を手放してみると、暮らしの「前提」ともいうべきものがリニューアルするかのような革命と、家電を手放す連鎖が起きた。今回は冷蔵庫を手放すに至った経緯と、起きた変化から、モノを持たない暮らしについて考えてみたい。
冷蔵庫がないと困る食品とは何か?
冷蔵庫は手放してもいいのではないかと考えるようになったのは、冷凍庫という存在を完全に持て余していたことが一つ目の理由だ。まず、冷凍食品を購入したことがない。それは、電子レンジを持っていないので、すぐに解凍することができないという背景もあるのだと思う。肉類も解凍ができないため、一度に必要な量を購入して、使い切ることにしていた。さらに氷も、水などの飲み物は常温でいいと考えていたこともあって、真夏でも使わないものだった。
つまり、冷やす必要のある食品がほとんどないに等しかった。牛乳はわが家では“嗜好品”扱いで、常時あるものではなかった。ビールなどのお酒類も、毎晩の晩酌はしないので、これもまた“嗜好品”扱いだった。
当時、冷蔵庫で保管していたものは、野菜、みそ、バター……。それだけ?と思うかもしれないが、本当にそれくらいだった。このうち、みそは発酵食品なので、常温でも問題ないとわかっていたが、なんとなく冷蔵庫に入れていた。野菜は、新聞紙にくるんでおけば大丈夫そうだ。残ったのは、バターだけだった。
バターのためにこんな大きな生活家電がキッチンを占領しているのかと思うと、とても無駄なような気がしてならなかった。ホテルのシングルルームにあるような、小型冷蔵庫でいいのではとも考えたが、インバーター制御や優れた真空断熱材などで省エネ性能を高めている大型冷蔵庫に比べて、コンパクトだからといって消費電力がその分小さいわけでもなく、大して変わらないようだ。家電量販店の店員さんに聞いてみると、「多くの人が購入する大型冷蔵庫に対してはメーカーもそれぞれ省エネ対策をするけど、小型冷蔵庫には力を入れていない」という回答だった。世の中のからくりを、また一つ知ってしまったような気分だった。
さて、バターをどうするか。試しに常温で保管してみると、軟らかい状態になってしまうものの、腐るというわけではなかった。私が暮らしているのは寒冷地で、真夏といえるのはせいぜい3週間程度。子どもたちがプールに入るのも、お盆前までだ。なんとかなる、という思いで冷蔵庫を手放すことにした。
冷蔵庫を手放すと、暮らしが変わる
暮らしが変わった、とまず感じたのは、日々の買い物の量が減ったということだ。よく「肉や魚などの生ものはどう保管しているのか?」と聞かれるが、そもそも保管をするという概念がないのだから(前述のとおり、作り置きをしないため)、保管をする必要がない。買い物はその日の夜に食べる分と、次の日の朝に食べる分しか買わない。夜用の肉類は、すぐ調理して、使い切ってしまえばいい。そして次の日の朝であれば、魚も傷んだりはしない。時折、作りすぎて残ってしまうということもあるが、我が家では犬2頭に市販のドッグフードではなく手作りのものをあげているため、残り物を待っている。だから、残りものを保管することもない。
考えてみれば、お菓子だっていわゆる生ものには「本日中にお召し上がりください」というシールが貼られたりする。生ものは、生ものとしてすぐにいただけばいいのだ。そして、既に買い溜めをしない習慣はあったが、もっとわかりやすく買いだめができなくなった。買い物の量が減ると、たった5分程度で買い物が終わる。スーパーの買い物かごも、ショッピングバッグも要らないのではないかと思うくらいだ。
さらに、肉や魚などを購入する頻度も低くなった。毎食のように肉や魚を食べなくてもいいのではないか、という気持ちになったのだ。遠くから肉や魚を取り寄せて、お金を介して購入して、すぐに調理をしないと腐ってしまう。冷蔵庫がないことで、初めて気付いた。自分が仕留めてさばいたわけではない。流通があり、家電という受け皿があるからこそ当たり前のように享受しているわけだが、でも実は、どこか無理をして手繰り寄せているのではないかという気持ちが芽生えた。
そもそも田舎に暮らしていると、ご近所さんから野菜や果物をたくさん頂く。食べても食べても、また別の方から頂く。こうしたありがたい循環の上に、ちょっとだけ肉や魚、豆腐などを買い足せば、十分に足りてしまうのだ。その肉や魚などを購入する頻度がさらに低くなった、ということになる。
そして、キッチン空間において大きな面積を占める冷蔵庫がなくなると、驚くほど空間がすっきりして見えた。冷蔵庫から時折聞こえて気になっていた「ブーン」というコンプレッサーの音も当然なくなった。家電がなくなると、こんなにも気持ちまですっきりするものかと思った。
日々の暮らしと、あらためて向き合う
冷蔵庫を手放したことで、家電を手放すことに火がついたように思う。同じタイミングで、掃除機も手放すことにした。それ以来、シュロ性の長柄ほうきと、ごみを最後に集めるための小さなほうき、シンプルなトタンのちり取り。この3点が、欠かせない日用品となった。玄関スペースの壁にほうきとちり取りを掛ければ、収納スペースを取らないことも気に入った。
もともと、掃除機の音も、掃除機をかけている時に排気口から出てくる臭いも、好きではなかった。室内で飼っている犬と猫が、掃除機を嫌がっていることも知っていた。中途半端な丸みのある本体と、伸縮できるホースの組み合わせという掃除機のたたずまいに少しも美しさを感じていなかった、というのも理由の一つだ。そして収納が難しい生活家電の最たるものが掃除機だと思っていた。電源コードは本体の中に収納できるが、本体とセットのホース部分と柄の部分が、どうにもこうにも収まらないというか、不安定な状態であることに、デザインとしての完成度の低さを感じていたのだ。
掃除機をやめてみると、掃除機にごみをためてそのままにしたいたことに気持ち悪さを感じた。それよりも、毎回ごみを捨てるほうが気持ちがいい。
そして、誰よりも早く起きて、静かな時間のうちにほうきとちり取りで掃除をして、朝を迎えることが日課となった。きれいな状態で一日が始まることが、何よりも自分の心を満たすようにもなった。
生活家電は暮らしの質を上げるのか?
生活家電は、暮らしを便利に快適にするためにあるのだと理解している。確かに便利ではある。でも、暮らしの質を上げるかというと、大して上げていないのではないか、とも思う。
「便利」であることは、うまく使った方がいい。けれども、疑ってみることもした方がいい。「便利」過ぎてはいないか、ということに一度は目を向けてみてほしいのだ。便利さに振り回されずに、あえて「不便」を選び取ることにこそ、暮らしの質を上げるヒントがあるのではないだろうか。
※ 写真は、昭和初期に使われていたという、氷を入れて使う冷蔵庫。氷を作ることもできないが、野菜の保管庫として使っている。
※ このコラムは、地球・人間環境フォーラムが発行する「グローバルネット」2023年01月号に掲載されたものです。定期購読はこちらよりお申し込みください。