洗濯機で洗濯するという“当たり前”を問い直す
冷蔵庫や掃除機を手放したことは、前回のnoteに書いた。次なる生活家電のターゲットは洗濯機だった。毎日使う洗濯機を手放すことはできるのか。手洗いはどのくらい大変なのだろうか。頭で考えていても、やってみないとわからない。それで、無謀かもしれないが、洗濯機を家の外に出して、洗濯物の手洗いを始めてみた。
実際に手洗いをしてみると、なかなか過酷な労働であることが見えてきた。洗うのも、すすぐのも、絞るのもひと苦労だ。そこで結局、洗濯機を戻して、使い続けることにした。今回は洗濯機を手放そうと考え、実際には手放すことができなかったその過程から、モノと向き合う視点について考えてみたい。
洗濯機は本当に必要なのか?
何かを手放してすっきりすると、さて、次は何を手放そうかと考え始める。これはもう何年も続いていることだ。これまでに手放してきたものを列挙してみると、生活家電だけでもかなりの数になる。
電子レンジ、コーヒーメーカー、炊飯器、ドライヤー、冷蔵庫、掃除機……。電気ポットなどはもともと持っていないので、キッチン周りではコンセントにつなぐ必要のあるものがひとつもない状態だ。置くだけで空間が取られる冷蔵庫も、収納場所に困る掃除機もないため、狭いはずの家がかなり広々として見えた。生活家電で残っているのは、洗濯機だけだった。
洗濯機を使うのをやめて、毎日手洗いはできないだろうか?それまで、何を手放しても困ることはなかったので、洗濯機という家電は本当に自分にとって必要なものなのかを考えることから始めた。
洋服の枚数が少ないために、毎日の洗濯が必須だ。当時は子どもが2人で、家族4人分の洗濯だった。下着類と、靴下と、シャツと……枚数を数えてみたりもしたが、やってみないことには何もわからない。ある日、思い切って洗濯機を取り外して、家の外に出してみた。
手洗いは、過酷な労働であるという現実
洗濯物を手洗いするには、大きめのたらいと洗濯板が必要だったが、そのどちらも既に家にあった。それ以外にも、バケツを2つ用意して手洗いにのぞんだ。
正しい順番があるのかどうかはわからないが、なんとなく小さいものから洗ってみた。長靴を履いてお風呂場にしゃがみ、石鹸を洗濯物につけて、洗濯板でゴシゴシと洗ってみる。難しいことではないのだが、そのうちしゃがんでいるのがつらくなってきた。
洗ったものは一時置き用のバケツに入れていく。ひとまず「洗う」という作業をひととおり終わらせる方針で、洗ってはバケツに入れて、また次の洗濯物を洗う。石鹸をしっかりとつけないと泡立たず、石鹸の使用量が多いことにも驚いたが、この「洗う」ところまでで、既に30分以上が経過していた。
次は、「すすぐ」工程だ。たらいにお湯を張って、1点ずつ洗った洋服を入れ、ある程度石鹸が落ちたなと思ったら、もう一度きれいなお湯の入ったバケツですすぎ、それでも足らずにバケツにお湯を張り直し、最後は蛇口から流水で仕上げをする。
すすぎの工程で驚いたのは、洗濯物があまりに汚いということだった。子どもたちはどろんこ遊びをしたわけではないのに、すすいだあとの水は真っ黒だった。それで、すすぎが足りないかなとお湯を使うものだから、使用する水の量も多いなと感じた。
お湯を出すときに立ってみたりと工夫はするものの、もうこの時点でしゃがむ体制はとてもつらかった。農作業と似ているが、一つの作業に集中するので、より“つらさ”を感じる気がした。そして「すすぐ」という工程だけでも、洗い始めてから1時間が経っていた。
さて、最後は「脱水」という工程だ。これが想像していたよりも大変だった。子どもの靴下のような小さな洗濯物は問題ない。面積の大きいもの、夫のシャツやズボンなどは、手で絞っていて息切れして、なぜこんなに大きいのかと、だんだん腹が立つほどだった。ジーンズなどは絞りきれず、手も腕も疲れ果てて、とてもではないけれど脱水ができない。
あまりに「脱水」が大変なので、ある日、ほぼ絞らずに干してみた。干せないことはないが、水分を含んだ洗濯物を持って移動するのも大変で、春でも1日で乾き切らず、洋服の枚数が少なく、洗濯物が乾かないと続けて同じものを着ることになる我が家では、脱水に手を抜けず、途方に暮れた。
洗濯物を1日でもためることができない
それでもなんとか、手洗いを続けてみた。子どもを保育園に送ってから、仕事を始める前に、1時間半ほどは手洗いによる洗濯に時間をかけた。
ときにシーツなどを洗濯する場合には、たらいで洗うことが難しいため、浴槽にお湯を張り、足踏みをして乗り切った。家族分を洗おうと思うとシーツ類だけで1時間はかかるため、週末の午前中いっぱいは外出ができなかった。
あまり想定していなかったのは、私が出張などで家をあける日の洗濯だった。最初のうちは、夫も頑張って手洗いをしてくれた。でも、毎回手洗いをするのはやはり大変で、帰宅してみると、今日は手洗いができなかった、と洗濯物が残ってしまっていることも多々あった。
帰宅する時間を問わず、そこから町内のコインランドリーへ持っていき、洗濯と乾燥までをする必要があった。なんせ、洗濯をしなければ、明日着る洋服がないため必死なのだ。
そしてコインランドリーに持っていくたびに、1,000円程度の出費になることには驚いた。コインランドリーの相場から外れているわけではない。けれど、私が出張のたびにそれだけの出費と、帰宅後にコインランドリーに行って乾燥までするという時間を捻出するには、だいぶ無理があることがわかり、今すぐに洗濯機を手放すことは難しい、という結論に行き着いた。
洗濯機という家電の便利さをかみしめる
結局、洗濯物の手洗いをした期間は、3ヶ月ほどだった。外に出していた洗濯機を戻し、洗濯機で洗濯をすると、朝ごはんの支度をして、食べ終わる頃には洗濯物が干せる状態になっている。なんてありがたい、なんて便利な生活家電なのだろうと思った。
それからは“洗濯機くん”と名付け、「洗濯機くん、今日も頑張ってるね」と家族の間で会話がされるようになった。毎日、洗う、すすぐ、絞るを文句も言わずにやってくれる。手洗いをしてみたことで、洗濯機という発明は、家事における大革命だったのだと思い知った。
調べてみると、洗濯機が発売されたのは1949年で、その頃はまだ、かく拌するための棒を回す必要があったのだとか。その後、脱水機つきの洗濯機が発売されたのは、1954年のこと。洗濯を生活家電にお任せする暮らしに変わって半世紀以上が経過したことになる。
洗濯機がなくても手洗いでなんとかなるかなと考えたのは、大間違いだった。けれど、手洗いをしてみてよかった、とも思った。その大変さがよくわかったからだ。こうやって、あることが当たり前なのではなく、自分にとって本当に必要なものなのかを検証することが、ものさしを持つために大事なのではないだろうか。
子どもが成長して、夫婦ふたりの暮らしになったら、また手洗いに挑戦することが、目下の目標である。理想はあるが、今は難しい。人生のタイミングで、ものさしは持ち替えてもいい。そう言い聞かせて、次なるチャレンジをしたいと考えている。
※ 写真は、手洗いのためのアイテム。大きめのトタンのたらいと洗濯板。いつかまた手洗いに戻すことを目論んでいる
※ このコラムは、地球・人間環境フォーラムが発行する「グローバルネット」2023年03月号に掲載されたものです。定期購読はこちらよりお申し込みください。