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モンブランとティーオレ

写真は昨日、まったりし損ねたひとりカフェのもの。

好きなアーティストのライブチケットの抽選に外れ(何度もトライしたが叶わず…)そうなったら自分を慰めるために食べようと決めていた、モンブランだ。

最初の一口を含んだ瞬間、娘からLINEが入った。少し前から患っている胃炎の症状が悪化したから助けてほしいと。(実際の言葉は「しんどい」「苦しいよぉ」とかいうシンプルなもの)

ケーキを食べながらしばらくやり取りする。

当然モンブランの味らしい味はわからなくなる。
こういうのは、今に始まったことではない。





娘が「倒れた」のはもう5年前に遡る。彼女が高2の秋だった。

詳細は省くが、それまで本当に”普通の高校生”の生活を送っていたのに、あれよあれよという間に「動けない」日々が始まった。

通院、カウンセリング、学校との交渉、転学、通学&受験のアシスト、大学のサポート、様々な送迎、etc。途中メンタルだけでなく身体的な疾患も見つかったため、娘自身 痛みや辛さに耐える日々だった。
  

そんな中一番困ってしまったのが、私と彼女の性格の差だ。

娘はいわゆる「女子っぽい」。感情や共感が第一でまずそこがケアされないと先に進めない。一方私はかなり「男っぽく」、まず対処法や今後の対策が頭に浮かぶ。それが彼女を傷つける。

娘の身体症状が切羽詰まっているときは私の特性は生かされ、危機的状況を幾度も乗り越えた。
 
しかしメンタルがやんわり弱っているとき、何となく寄り添ってほしい、緩やかに励ましてほしいときなどは、私の論理的な対応は彼女にとって「痛くて辛い」ものが多く、より落ち込ませてしまうことが多かった。



いつだったか、娘のバイトの日の朝に調子が悪くなり、いつまでもグズグズしてい(るように見え)たので早く連絡するように促すと、

「お母さんは私の気持ちはどうでもいいの!?」

と爆発してしまったことがあった。

私は「早く連絡しないとバイト先に迷惑がかかる」ことが気になり、それが終わらないことには「私が」落ち着かなかった。
 
でも娘は「今」辛いことを「私に」わかって欲しかっただけで、それが収まれば自分で何とかするという話だった。

必死で考えて動くことが、悉く裏目に出る。

娘と自分は違うのだとわかっていても、咄嗟の場面では「自分だったらこうしてもらえると嬉しい」「こうすればホッとする」行動をとってしまう。それで何度失敗したかわからない。(余裕があるときは何とか合わせられるのだが…)

 




ケーキを食べながら娘とLINEをやり取りし、そそくさとカフェを出ると買い物をして帰宅した。モンブランとティーオレの最初の一口を、じっくり味わえたことが救いだった。

娘のケアをして症状が落ち着き、夜に二人になったときのこと。

「せっかくケーキ食べてたのに、呼び出してゴメンね。いつもありがとう」

と言ってくれたので

「いやいや、いつも至らぬ母で申し訳ない」

と応えると娘は

「お母さんは、何を目指してるの?」

と笑った。

「とんでもなく苦しいときは、的確な対処で助けてくれる。自分のやりたいことを抑えて私を優先してくれる。そばにいてほしいときにいてくれて、話を聞こうとしてくれる。何とかわかろうとしてくれる。それで十分」

そう言ってお風呂に入っていった。 

娘の問いを受けて「はて?何を目指してるんだ?」と考えたとき、迷うことのなく浮かんだものは”娘の笑顔”だった。

だから苦しそうな彼女を見ると辛いのだ。
何とか出来ないだろうかとあれこれ迷うのだ。
至らない自分が情けないのだ。






先週から始まったNHKの朝ドラ「舞いあがれ!」でも病弱な娘(主人公)と母親との葛藤が描かれている。

つい心配し過ぎてあれこれ先回りしてしまう母親と、自分と一緒にいる母が辛そうだと見抜いている娘。お互いを思いやる気持ちはあるのにすれ違う様子に、非常に胸が痛い(苦笑)。

物語では主人公は母方の祖母に預けられ、しばらく離れ離れになる。
それが母と娘にとって、良いきっかけになる。

おそらく私と娘もそうなのだろう。


お互いに相当苦しい5年間だった。
まだ体調面で目を離せない部分はあるのだが、どこかで距離を置く必要が生じている。





いつか美味しいケーキを
ひとりでじっくり味わったとき。

ゆっくりと
カフェのひとときを楽しめたとき。


そういえばこんなことがあったな、と温かい気持ちで振り返れればいい。

昨日味わった
モンブランとティーオレの最初の一口は、
そのときまで続いている。