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「美しいもの」と「おいしいもの」

ぱっと見、目を引く美しさ。
誰が見ても気分がよくなるべっぴんさん。
色も形もナイスバディ。
思わずわぁ〜っと声をあげ、なでなですりすりしたくなるような肌触り。

なんのお話かって?

今回は、美の秘訣…ではなく、農作物のお話。

人は「美しいもの」に自然と心惹かれてしまう。

「美しいもの」と「そうでないもの」があった場合、
多くの人は「美しいもの」を選ぶだろう。

では、「美しいもの」と「おいしいもの」だったらどうだろう?

奇跡の双子柿

見た目のきれいさか、中身の美味しさか。
これは分かれるかもしれない。
人に差し上げるものとかでなければ、「おいしいもの」に軍配があがる可能性は大いにある。

もちろん「美しくておいしいもの」、
そんな才色兼備、文武両道的などちらも兼ね備えているような場合は、
いうまでもなく最高だ。

農作物の中では、一級品と呼ばれるまさに高級品。

けれど、最近思う。
“一級品”と名のつくものの中に、たくさんの“まがいもの“が存在するのではないかと。

見た目は、冒頭にも書いたような

ぱっと見、目を引く美しさ。
誰が見ても気分がよくなるべっぴんさん。
色も形もナイスバディ。
思わずわぁ〜っと声をあげ、なでなですりすりしたくなるような肌触り。

文句なしの美しい井手立ち。

だけど、内側は……?
と言いたくなるような…

まるで、外見のみに時間とお金をかけて、
肝心の人間力が育っていない残念な大人のように、
面白くない、惹かれない、おいしくない。

それなのに“一級品“と呼ばれる農作物がちらほら…

どうしてこんなことが起きてしまっているのか?

今回はそんな話をしてみたいと思う。

「美しいもの」を優先する市場と消費者

スーパーのトマトがおいしくない。

そう感じるのは、本当においしいトマトを食べたことがあるから。
実家の畑で母が作るトマトは最高においしい!

これはトマトに限らずの話だけど、きゅうりにピーマンなど
特に夏野菜でこの違いを強く感じる。

昨年からは、自分でもトマトを作ってみるようになり、
味の違いにさらに敏感になったようにも思う。

初収穫トマト

スーパーのトマトはもはや買う気がしない。

味の濃さと深みがまるで違う。

なぜ、こんなに違いが出るのか?
なぜだと思います?

スーパーに売られているトマトは、言うまでもなくきれいで美しい。
今やトマトも旬はいつ?というくらい1年中店頭に並んでいる。

でもやっぱり、その野菜に適した時期や季節があり、
だからこそ旬の野菜や果物は無理がなく、自然な状態で十分おいしく栄養価も高い。

さらに、人間の身体にとっても旬のものを食べることは理にかなっていて、
心身を整えてくれたり、その時身体が欲する必要な栄養を補ってくれる。

これが時期を選ばず1年中となると、いろんな面で不自然や不具合が生まれてきてしまう。

冬にトマトを作ろうとすると、ハウス内で夏のような環境を人工的に作らなければならない。
燃料代もかかるからトマトの値段も高くなる。
トマトは夏野菜で身体を冷やす作用があるから、冬に食べるのはそもそも身体にとってもよろしくない。

でも、1年中並んでいるということは、それを欲しいと求める人がいるから並ぶわけで。

なぜ、スーパーのトマトがおいしく感じられないかというと、
見た目のきれいさを優先するがゆえ、まだ熟さない青いうちに収穫するから。

農業をしていると、虫や動物たちの目利きというか嗅覚の凄さに恐れ入ることが多々ある。

彼らは、一番おいしいときをよく知っていて、そのタイミングを狙って食べにくる。

トマトが真っ赤になったとき、いちじくが食べごろになった時、白菜が一番柔らかくみずみずしい時。
青いトマトには見向きもしない。

虫にかじられる前、傷がつく前、要はきれいな状態のまま収穫しようとすると、
いちばんおいしい時まで待っていると、リスクがグンと高くなるわけです。

本当は食べ頃まで待っていたいけど、もし虫にひと齧りされてしまったら、
そのトマトはもう出荷できなくなってしまう…。

だから、青い状態の時に収穫して出荷する。
青いままでも、もいでから少しずつ色がついてくるので、
スーパーに並ぶ頃には赤くなっているわけです。

でも中は…?

熟していない、収穫時期ではない、栄養素もほとんどない。
きれいだけとおいしくない。

味が薄いと感じるようなトマトのできあがり。

もう一つ、実体験を経た例として桃をあげてみたいと思う。

以前立派な箱に入り、一個一個ネットで包まれた
それはそれはお姫様のような形も表面も美しい桃をいただいた。

まさに一級品というような扱いで、箱の中にきれいに鎮座されていた桃たち。

さぞ味もおいしかろうと、期待して食べてみたところ。
うーん、おいしくない…

期待が大きすぎたのは否めなしだけど、トマト同様、味が薄く旨味が感じられない。

贈答用とよばれるこれらの見た目重視の一級品。
値段も高値で扱われるため、農家さんたちも一生懸命いいものをと頑張るわけです。

でも、その裏できっと傷がつかないように、虫にかじられる前にと、
トマトと同じような事態が起きているのではないかと感じた。

本来の時期に収穫し、栄養素やおいしさがマックスに花ひらいたものよりも
市場や消費者が「美しいもの」を求める限り、この本末転倒のような事態はなくならない。

「おいしいもの」が捨てられる現実と生産者

佐渡はフルーツ王国。
南のみかんから北のりんごまで収穫できる、まるで日本をぎゅっと凝縮したような宝島。

四季を通して、本当にさまざまな果物が実る。

特産のおけさ柿に限らず、桃、スイカ、メロン、さくらんぼ、ぶどう、キウイ、ルレクチェ…ここではあげきれないほど。

それゆえ、実家には時期時期でたくさんのハネもの果物が届く。

ハネもの:市場に出荷できない規格外品

フルーツは買うものではなくもらうものみたいな豊かさと贅沢さがぐるぐるしてる。
実際、買うことは滅多にない。
いただきものの量も段ボールいっぱいとかコンテナごととか半端ない。


ハネものシャインマスカット
ハネものソルダム

中には、これのどこがハネ?と頭をかしげたくなるような、ほんのちょっと形が整っていない、ほんのちょっと小さい、ほんのちょっと傷がある、そんな“ほんのちょっと“の微差でハネられたものも多い。

見た目はほんのちょっとでハネられてしまった果物たちも味は一級品と何ら変わらないわけで。

むしろ、食べ頃で収穫されたこれらの果物は本当においしい!!

さっき桃の一級品の話をしたけれど、見た目きれいで味が薄い一級品に比べ、
見た目は奇形や傷ありでも味が濃くておいしいハネものの世界の可能性といったら!

でも、このなんとも言えないほどおいしく育ったハネものは値がつかない。
値がつかないということは売り物にならず、おすそ分けで配るかそれでも余りある場合は、
捨てている現実がある。

なんともったいない。

こんなにおいしいのに?

一級品の値段は跳ね上がり、その一方でおいしいハネものは捨てられる。

なんだかおかしいことになっている。

ハネものも生産者さんの収入になったら?
ハネものも消費者さんに届けられたら?

今の果物が高値で扱われる世界は、
一部の人しか幸せにならない。

一部の人しか手が届かない果物より、みんなに手に取ってもらえる果物にしたい。

ほんとうにおいしいものを気軽に買い物かごに入れてもらえる値段で。

それって、生産者さんにとっても消費者の人にとっても、
環境にとってもいいこと。

みんなにとっていいことは、きっと社会をあったかくする。

美しいものとおいしいもの、便利さと豊かさ

食を大事に、第一次産業を大事に、それが豊かさの土台となる。

食が奪われてしまった。
添加物、コンビニ、時短、Uber…

忙しい現代人にとって、食にも便利さ、手軽さが最優先されるようになった。

それはしょうがないのかもしれないけれど、しょうがないで終わらせていいのかなとも思う。

自分の健康よりも優先させるべき忙しさってなんだろう?

栄養のないものを食べてるから、活力が生まれない。
活力が生まれないから、ごはんを作る気になれない。
ごはんを作れないから、簡単にカップラーメンで済ます。
お腹は膨れるけど、心と体は満たされない。

負のループ。

エネルギーが枯渇したまま走り続けていたら、いつか壊れてしまう。

便利さに人はすぐ慣れてしまう。
わたしもご多分にもれず便利さの恩恵にたくさんあやかっている。

ただ、便利さは人を幸せにしただろうかと考える。
便利さは豊かさを生んだだろうかと。

便利が“当たり前“になると、感謝は薄れる。
そして、“もっと便利“を求めるようになる。

これは際限がないようにも思う。

不便、非効率、無駄、時間がかかることの中に、
幸せや豊かさがあることをここ数年ようやく気づき始めた。

ほんとうにおいしいハネものが捨てられるおかしさと同様、
わたしたちは幸せや豊かさを求めながら、
それを捨てるような生活をしているようにも思う。

片耳ちょん


ほんとうに望んでいる幸せや豊かさを捨てて、便利さを優先することは、
ほんとうにおいしいハネものが捨てられ、うつくしいものを優先することと
繋がっているような気がしてならないのだ。

そして、この意識に少し変化が起きたとき、
みんなが幸せに豊かになれる波が生まれる気がしている。


農とひとりごと



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