あと100回熟考を重ねても
気が付けば年末。
北広島にも遅めの雪が降ってきた。
振り返りなどはあまりしない。
今年は去年の続きだし、来年は今年の続きで、ただ坦々と進んでみるだけ。
とはいえ、今年の内に片付けておきたいことはある。
書いておきたい結論がある。
今年の7月はずっと胸がざわざわする月だった。
大西つねきの「命の選別」という発言があったあと、私は祖母の訃報を受けた。
通夜、告別式を終えて広島に帰ってきた翌日に大西氏の会見があった。
会見の内容を聞きながら、棺に入った祖母の顔を思い出す。
「命、選別しないとだめだと思いますよ。はっきり言いますけど、その選択が政治なんですよ」
わあんと頭の中に響く。
ああ、駄目だ。
怖くてたまらない。本当に、怖い。
「死ねばいいのに」と言われたように身体がこわばった。
発言後1か月程経った時に書いた私の文章がある。
この文章を結局どこにも置くことが出来なくて、今日までPCに眠っていた。
今なら載せてもいいだろうと思える。
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2020,8【命の選別】
大西つねきの発言をきっかけに命の選別、もしくは尊厳死、安楽死と言われる自身の生死の選択について議論をという声が大きくなり、一部の政治家もそれらの議論は必要などとのたまう事態になった。
私は大西氏の発言から1か月程、頭の中を【命の選別】に捕らわれて、恐怖と悲しさ、どうしようもない焦燥感に陥ることが度々あった。その怖さというのは、大西氏本人へというよりは、彼を擁護する支持者や、それに乗っかって議論を、と畳みかける人たちから受けたものだ。
「命の選別こそが政治なんですよ」と氏は言い放った。
荻上チキが「純度100%優性思想」と表現した通り、これは特定の人たちに向けられた言葉ではない。高齢者のことしか言っていないだって?それが政治判断だと言うのであれば、これからその政治判断とやらで高齢者以外にも範囲が広がっていく可能性があるということだろう。容易に想像できる。
そんな想像を否定して「考えすぎ」とか「つねきはそんな意味で言ったんじゃない」とか「生き方を考えるきっかけを与えてくれた」とか、ちゃんちゃらおかしいのだけど、そんなことを支持者は大真面目に言っているから本当に絶望的である。大西氏の講演会を主催しようと思っていたため、大西氏の支持者多数と繋がっていたが、その中ではっきりと批判を表明しているのは恐らく私くらいだと思われる。なんということだ。
大西氏は、一度は「政治家として」謝罪しながら、学びの機会の中で当事者たちの声を受け入れることをせず(それは本人が「高齢者に対して言っただけ」との主張から)「謝罪を撤回」という謎の表現で自身の発言を再肯定し、差別と優性思想を一層深いものにした。
れいわ新選組の船後議員が言うようにこの問題を「大西氏個人のものとして矮小化」することは出来ない。もともと世間に名も知れていなかった大西氏のことなので、時間が経てばその存在も忘れ去られていくかもしれない。
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文章はここまでだが、まだまだ書くつもりだったと記憶している。でもここで止まってしまった。
この文章の完成形は今現在も大西つねきを支持する者たちへの壮大なアンチテーゼになる予定だった。
それなのに、この時点でもう誰かに読ませる気が一度失せてしまった。葛藤があったからだ。
もしかしたら、「やっぱりつねきのあの発言はいけなかった」と言う支持者が現れるかもしれない。
批判している私に対して「ちょっと話そう」と言ってくれる人がいるかもしれない。
対話を始めるきっかけがあるかもしれない。
そんな0.1%くらいの可能性を待ってみたかったのだ。
命の選別を肯定する人に必要なのは擁護じゃなくて、指摘や批判だった。
批判も指摘もできない支持者はもう支持者じゃないんだよ。
あっという間に年末になった。
いつまでも待つつもりもないし、自らが進んでいくためのやり方を知っている。
つい重荷になりやすいSNS上のつながりはきちんと整理しよう。
その為に今こうやって書いているんだから。
どの場所にいても、誰しもがどうぞ健やかに、生きていてほしい。
死が「訪れるまで」生きていてほしい。