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【ピアニストエリコの日常 ⑤ そして私はベルリンで黄金の仏像になった】


【エリコの日常 ⑤】

2014年7月9日の記 「そして私はベルリンで黄金の仏像になった」

(私のベルリン時代: 2002〜2009年)


思い起こせばベルリン時代の特に前半、私はそれと気づかぬ間にLGBTQカルチャーの中へどっぷり浸かっていた。伝説的なバーやクラブが無数にあり、ゲイバーのママたちには大層可愛がってもらった。マッチョなにいさんたちとバスケットを持って森へピクニックに出かけたし、ドラァグクィーンの仲間とも、よくカルトな映画を観に行ったりした。

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(photo: Kamilla Bloch)

2001年、ベルリン市長選挙に臨む前、党大会でクラウス・ヴォーヴェライト氏が長年の同性パートナーの存在を公表して大好評を巻き起こし、市長選勝利。2002年からベルリン生活での生活を始めた私は「ヴォヴィ」の愛称で呼ばれる市長とパートナー氏がウンター・デン・リンデンなどで一緒に歩く姿を何度も目にしたものだ。

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(photo: Lone Israelsen)


たったの、と言うと語弊があるかもしれないが、今から20年前、政治家が自らの性を公にすることで大注目され、選挙に大勝した時代だったのだと改めて社会の変容に深い感慨を覚える。

(2021年1月31日追記: アイスランドのヨーハンナ・シーグルザルドッティル氏が同性婚結婚者として世界初の国家首脳となったのは2009年。2019年にフィンランド首相となったサンナ・ミレッラ・マリン氏は同性の両親を持つ)

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(photo: Jacob Stage)

あの時代に私という人間の重要な根幹の部分が形成されたのだと思う。すなわち、偏見・差別を持つことの愚昧さについて、ベルリンという街に住むことで徹底的に教育してもらったのだ。多種多様な文化が混在するあの街、“Das ist mir Scheissegal (どうでもいいさ)”が口ぐせの、自他をはっきり線引きするヒトビトの中で暮らすことに慣れるまで多少時間がかかったが、ベルリン時代なくして今の私を語ることは叶うまい。


しかし、時には血の気の引くような出来事もあった。ジルベスター(大晦日)をゲイクラブで踊り明かした翌々日。一緒に行った友人からの電話で、私は恐ろしい事実を知ってしまう。

「エリコ、大晦日を過ごしたクラブのウェブサイトを開いてごらん」

半笑いの声で告げられて恐る恐るPCを開くと、なんとホームページ一面に、金色に輝くドレスで踊り狂う私の写真が大写しで掲載されているではないか。このドレス、シースルー素材でフロント部はゴールドのスパンコールで覆い尽くされているものの、バックサイドはスッケスケ。お尻もモザイクを入れてと土下座で懇願したいほどスッケスケ。大晦日のベルリン以外では決して着ることはない「ワンナイト・イン・ベルリンのかほり」しかしないキワモノドレスを着て世界一幸せそうにダンシングしている写真が、画面いっぱいに溢れ出している!

オーーノーーッ ((((;゚Д゚)))))))

この公開処刑に私は蒼ざめた。

「 やだっ、アナタったら全身金色でまるでブッダみたい、ステキ。1000年に一度のご開帳ね ♥️」

と、友人が感嘆の声を挙げる。あゝ、と私は床に崩れ落ちた。女装の姐さんや、キンキーなレザーサスペンダーと鎖でデコられたアニさん達に囲まれてトランスに入ったお尻丸出しの金色堂エリコを、どうかデジタルタトゥーの魔の手から救ひ給へ、インターネットの大海原から。

まだSNSが発達する前で本当に良かった...。

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(photo: Jacob Stage)


⬇︎ ここから舞台はクラブから私のアパートへと移る ⬇︎

我がアパートの真上に住んでいたのはゲイカップルだった。ベランダには白雪姫と七人の小人の置物が飾られ、週末にはシャボン玉を吹いて楽しそうに過ごす、非常に仲の良いふたりだった。ひとりはシャイで心優しいプロのボディービルダー、もうひとりはかなりのヒステリーを起こす会社員で、私のピアノ練習を巡ってこの会社員と私は激しいキャットファイトを繰り広げたものだ。けたたましいドアベルが鳴ると、それが私との戦闘開始のゴングである。練習がうるさくって何も出来やしないと吠えに吠える彼を、心優しいボディービルダーが間に入ってなだめるのだが「アンタ、イッタイドッチノ味方ナノヨッ」と新たな戦闘が私の玄関前で勃発するのを懐かしく想い出す。

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ベルリン時代のことは殆ど記憶に蘇ることもなかったけれど、書き起こしているうちにいろいろと思い出してきた。久々にベルリンを訪ねて、あのどうしようもないほどあったかくて、優しくって、無茶ばっかりする彼らに会いたいと切実に願う。

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