私はこうして田中圭さんのファンになりましたっていうお話(※2020年頃に下書いていたnoteを改めて加筆修正したものです)
田中圭さんが大好きだ。大ファンだ。私は、今まで芸能人をこんなに好きになった事は無かった。日本のTVドラマや映画を長いこと見ることが無く、そういったものに殆ど興味が無かった人生だったのに、今、私は寝ても醒めても毎日 田中圭である。少しおかしい。自分でも自覚はある。なぜこんなに好きなのか。今日は私が田中圭さんを好きになった経緯を書き残しておこうかと思う。
序章
私はイギリスに住んでいる。海外に憧れて20代の半ばにひょっこり日本を出たのだ。それ以来、在英約20年になる。(※2020年当時書いたものです)
海外にいる日本人には二通りあると思う。海外で暮らしていても日本の文化を大切にし、日々の生活にも日本の要素を取り入れ、定期的に帰国もして、日本との繋がりを絶やさないタイプ。一方で、日本語も話さなくなり、ろくに帰国もせず日本との繋がりがどんどん希薄になる者もいる。私は後者だった。人それぞれだと思うが、私はこの国に馴染んで生きていく事に精一杯で、切り捨てたものが多かった。イギリスでの暮らしでは、仕事でも家庭でも日本語は全く使わないし、帰省も高額な旅費のことを考えるとしだいに割に合わなく思えてきて、日本にも帰らなくなってしまっていた。日本は大好きだし恋しくなかった訳ではない。ただ、日々の生活の中で、日本的要素がどんどん喪失されてしまうにつれ、日本の事は心の隅に蓋をして置いておき、たまに開けて愛しんでは、再び蓋を閉めておくような感じになっていた。
そんな、日本との物理的な距離に加え、心理的な距離さえも大きくなる日々ではあったが、たまに日本のニュースは それとなくチェックはしていた。話題になった事柄や何が流行っているかくらいは多少は知っておきたい気持ちもあった。
おっさんずラブ
2018年の春。たまたま眺めたある日のネットニュースで『おっさんずラブ』の事が書かれていた。ちょうど2話の放送直後で「話題になっているドラマ」と言うような内容だった。タイトルも面白かったし、なんとなく気になって検索したら、あっさり配信で見る事が出来た。これが、めちゃめちゃ面白かった。衝撃だった。ドキドキする気持ちで、すぐさま1話も視聴。2話のオーディオコメンタリーも探し出して聴く頃には、もうすっかりハマっていた。それからは毎週のTver配信を心待ちにして最終回の第7話まで夢中で観た。
日本との縁がすっかり希薄になっていた私だったが、気がついたら、仕事や家事や生活の空いた余暇の時間を、全ておっさんずラブ関連で費やすようになっていった。もっともっと知りたくなったのだ。異国で暮らす約20年もの間、文化や言葉の壁とガチンコで向き合い、仕事や結婚生活や出産育児をひたすら頑張る事ばかりに全振りしていた私は苦行モードで生きていた。そして自分でも気が付かないうちに心のどこかの何かがカラッカラだったのかもしれない。乾いた砂に水が染みるように、飽くことなく情報を欲した。
おっさんずラブの事が気になり過ぎて、頻繁にネット検索で情報を得るうちに、ツイッターにも行き着いた。何年も前にアカウントだけは開設したものの、殆ど活用した事が無かったのだが、おっさんずラブを境に、私の最も愛する日常ツールになっていった。
そして、おっさんずラブを主演した田中圭さんの公式サイト『圭モバ』の事も知った。圭さんがおっさんずラブについてブログに書いているというのだ。気になって検索すると、有料。正直このときはまだ『おっさんずラブ』が好きと言うだけで、圭さんに心酔はしていなかった。お金を払って日本の芸能人のブログに登録するってどうなのか?これってファンクラブに入るようなものなのか?と1日くらいは躊躇したのだが、結局、超お手頃価格だったので気になる部分だけ読んで退会しよう、などと、今の私からは信じられないような心の温度での入会だった。
圭モバでの圭さんの文章は、とても親しみやすく愛嬌たっぷりで素晴らしかった。おっさんずラブにどハマりした私は、圭さんの文章に春田創一を投影して、感動の第7話を迎えて終わってしまった『おっさんずラブ』の春田がまだそこに存在するような気持ちになり、とても嬉しくなってしまった。彼の書く、ファンに寄り添い、包み隠さずに本心を曝け出してくれるような文章に、田中圭さんのことをとても好きだ思うようになった。
京極係長と花井京谷
『おっさんずラブ』ロスの気持ちが残る中、すぐにはじまったドラマ『健康で文化的な最低限度の生活』も、圭さん会いたさに視聴した。春田とは別人の、頼り甲斐のあるパリッとした中にも人間味のある京極係長は、これまたとても魅力的だった。スーツ姿もカッコ良くて見惚れた。
その後のクールで始まったのは『獣になれない私達』だった。主人公の彼 エリートでイケメンなのに元カノ関連で奇怪な問題を抱える花井京谷の役だった。ネットで得た情報によると、クズ役に定評がある田中圭ということだったが、私にとっては、クズ役の圭さんは京谷が初見だった。そして、私は京谷の事もとても好きになった。悪いことをしているのに、逃げたり誤魔化したりズルかったり。でも圭さんが演じる京谷は、そこに人としての温度とリアリティが感じられ、とても愛おしかった。当然ではあるが、ドラマは主人公にスポットライトが当たるストーリーで、初めの頃こそ素敵なシーンもあったものの、徐々に京谷は『クズなダメ男』として話が進んでいった。ある回では、主人公と元カノが京谷の鼻を明かすシーンがあって、ツイッターでは『京谷がやり込められてスッキリした!』などの呟きが溢れたのだが、私はこれに納得がいかず、悔しくて堪らなくて、京谷を擁護するツイートを呟いた。はじめての積極的なツイートだった。いくつかのイイネがついて、とてもドキドキした。ツイッターの中では、このような少数派のニッチな想いを共有してもよいのだと実感した瞬間だった。また、私が田中圭さんと彼の演じる役にのめり込んできている事を自覚したのもこの頃だった。
田中圭24時間TV
次は『田中圭24時間TV』だった。脚本家の鈴木おさむさんと漫画家の東村あきこさんがタッグを組んで発案したもので、これは24時間で1時間ドラマを撮影、その様子をAbemaTVで生放送し続けるという前代未聞の挑戦的な企画だった。その主役が田中圭さんだったのだ。これが本当に凄まじかった。
生放送で撮影し、たったの24時間で一本のドラマを作りあげるという企画自体が、既に相当な無茶ぶりであったにも関わらず、その内容は全く 置きにいっていない ものだった。まず、それぞれのシーンが一筋縄ではいかなそうなトリッキーなものの連続だった。アクションシーンやフラッシュモブ、大人数のエキストラを使ったシーンもあり(スタッフさん大変だっただろう)、水場の場面や狭い廊下を滑走するシーンや(カメラさんや照明さん大変だったろう)、街中でのゲリラロケや台本無しのエチュードなど(役者さんの技量が問われるだろう)映像の仕事なぞに携わった事のない素人の私の目からみても『え?これって凄く大変なんじゃないの?』と危惧し、スタッフさん達に課せられている大変なプレッシャーに思いを馳せ、ハラハラしながら視聴した。事前番組宣伝のインタビューなどでも、圭さんが度々「鈴木おさむさんは、どS。楽をさせてくれない。」と仰っていたが、こういう事か…と理解した。
さて、そんな過酷な挑戦の中での主演の圭さんはどうだったかというと、想像を軽く飛び超えていた。どのシーンもさらりと確認した程度で、綿密なリハーサルも無く、テストもそこそこの状態にもかかわらず、ほぼNG無しの1発OKの連続だったのだ。鈴木おさむさんがトラップとして仕掛けているとしか思えない、多種多様な難しそうなシーンを、いとも簡単そうに次々と時間内にクリアしていくのだ。これがプロの俳優なのか!!と感嘆した。
ドラマのストーリー内ではバイプレイヤーズにスポットをあてた場面があった。圭さんが、長いことバイプレイヤーのポジションで活躍してきたことを鈴木おさむさんは盛り込んだのだのだろう。ドラマ部分の合間に余興的に用意された『バイプレイヤーズ座談会』では、名バイプレイヤー達が勢揃いで、主役でない演者たち の境遇や悲しさを面白おかしく語った。どこか切ないながらも、この名バイプレイヤーズ達からは、プロの俳優としての高い技量とそこにある確かなプライド、そしてなによりも演じる事が好きである事が感じられた。そして、俳優 田中圭の軸にあるメンタリティがここにあると思えた。
ドラマ部分本番のカメラが回っていない合間の僅かな時間の圭さんは、要所要所で小物や立ち位置も確認。シーンの前後の繋がりなどをチェックしていた。私は今まで考えもしなかったが、そりゃそうだ。ドラマのシーンは一から順に撮っていく訳ではない。設定や時間 共演者 セットなど様々な都合でバラバラに撮影する事が良くあるようだ。この日の24時間TVドラマも例外では無かった。はじめの頃こそ、ドラマ冒頭のシーンから撮影を開始していたが(恐らく視聴者への配慮であろう)、徐々に撮影順番はランダムになっていった。バラバラに撮影されるシーンは、のちに編集で繋げたときに継続性が保たれていなければならない。たぶん、物語の全体の流れを把握し細かい点を確認しておくのはスタッフさんの役割なのだと想像するが、この24時間TVを観ていた限り、主演の圭さん自身も細かい点までよく把握して、スタッフさんと助け合いながらスムーズに撮影を進めていた様子がみえた。田中圭さんに関する記事を読んでいたときに度々目にしていたのが、田中圭さんの記憶力の良さだった。本番に臨む前に台本を全て暗記しているのだと。この24時間の現場でも、画面を通して見る中でその凄さを感じた。圭さんはほとんど台本をみていなかった。にわかには信じられないが、どうやら本当にストーリー、セリフ、全体の流れまでが全部、彼の頭の中に入っているようだった。
また、役者としてのスタミナも尋常じゃなかった。25時間(いや、始まる前も眠ってはいなかったでしょうしもっとでしょうね)眠っていないのに、疲れや愚痴が出るどころか、ずっと周りを気遣い明るく盛り上げていた。一緒に出ている田中直樹アナウンサーや鈴之助さんが、どんどん疲労の色を滲ませる中、一番大変なはずの圭さんは、なぜか仙人のような透明感や美しさを増していった。あれは一体どういう事だったのだろうか。本物の美丈夫って、こういう風に出来ているのか?と奇跡を目撃している気分になった。
そして、こんなに凄まじかった田中圭24時間TVドラマを締めくくる最後のシーン。なんと本番1時間前に、圭さんに8ページのラストシーンの台本が渡されて、僅かな時間で長台詞を暗記して、すぐさま撮影に挑まなくてはいけないという よくこんな事が思いつきますね と思うどSぶりだった。そして、果たして大丈夫なのか?という心配もよそに、やっぱり圭さんはさらりと台詞も覚えきりシーンの撮影をこなしてみせたのだった。本当にお見事だった。
いったいどれだけの人間が、24時間不眠の状況で8ページもの台詞を覚える事ができるのだろうか。ずっと薄っすら感じていた事ではあるが、この人は常人ではない。何もかもスペックが普通の人とは違う上に、俳優としての勘の良さ、周りを良くみている視野の広さ、スタッフをリスペクトし、常にチームワークを大切にする仕事観など、彼の底知れない深い人間力を見せつけられた25時間だった。もうここまで来ると、好きだとかファンだと言う言葉では足りないくらい、私は田中圭さんに人としての憧れと尊敬の念を抱いたのだ。
私はもう、俳優 田中圭を心底から好きになっていたのだが、そこからさらに深く落とされた場面がある。それは、この24時間TVのラストシーンで共演者の鈴之助さんが台本を逸脱して泣き出してしまったところだ。この24時間で撮影された「唇ウォンテッド」と題する1時間ドラマは、謎の何者かによって唇に懸賞金がかけられた田中圭(本人役)が 追われて逃げて翻弄される 奇妙な長い1日を描いた物語だった。撮影開始から24時間ほど経過し、いよいよ最後のシーン。スタッフも出演者も視聴者すらも全員が疲労困憊の状態で始まった一発撮りだ。場面は、本人役の田中圭と鈴之助が、この奇妙な1日を振り返り楽屋で会話するという物語の締めの部分だった。ここで圭さんの台詞を聞きながら、なんと鈴さんが堪えきれずに泣き出してしまったのだ。事情としては無理もない。この24時間、ここに関わった全員が本当に大変な挑戦を頑張り続けて、心身共に極限状態だったのだと思う。その日の終わりというシーンで、田中圭役として台詞を続ける圭さんをみながら、思わず感極まってしまったのだと思う。しかし困った事に、ドラマの流れとしては、そんな泣くようなシーンではない。でも鈴之助さんは嗚咽が止まらなくなってしまっていた。私は、この場面を視聴しながら、正直、鈴さんに対して瞬発的に苛立ってしまった(ごめんなさい)。圭さんをはじめスタッフ皆んなが、せっかくここまで一生懸命に頑張り続けてきたのに、まるで大事なゴール直前で、鈴さんが盛大にすっ転んで全てを台無しにしてしまっているように思えてしまったのだ(ごめんなさい!!)。
そして。このときの圭さんを、私は忘れられない。嗚咽が止まらなくなってしまった鈴之助さんに対し、圭さんの表情がリアルタイムで写し出された。数秒じっと鈴之助さんを見つめた圭さんの瞳には、若干の揺らぎがあって“困ったな“という色が滲んでいた。そして、その困った様子を残しつつも、次の瞬間に、とても優しいトーンで『じっくり、聴いてて…』と鈴さんに言ったのだ。そこには、苛立ちや怒りの空気は全く無く、ただただ優しくて温かくて落ち着いていて可愛らしかった。そして、それを聞いて、なんとか落ち着きを取り戻すことが出来た鈴之助さんの顔ををみて、もの凄く優しい顔でふわっと笑ったのだ。そして、そこから現場は持ち直すことが出来て撮影は進み、無事に終了したのだった。
なんて人なんだ、と思った。こんな極限状態の中で、こんなにも温かく優しく、相手や周りを慮り、常に冷静さを保てて、頼りがいがある人がいるのかと。雷に打たれたみたいな衝撃を受けた。このとき受けた衝撃と大きな感情が、ずっと私の中に残っている。好きだとか、尊敬だとか、憧れの先にある気持ちを表現する言葉は何だろうか。もうわからない。でも、そんなことは最早どうだっていい。私は、この人が俳優としてお仕事を見せてくれている限り、これからは、その様子を全部みてみたいと思ったのだった。
そして今、2024年
そして今は2024年6月である。このnoteは2020年はじめ頃に書いていたものだが、当時、書き終える事なく放置してしまっていたものだ。
最近、noteの下書き欄を眺めていて、久しぶりに自分で読み返してみたら、その当時の気持ちが鮮明に蘇ってきて、ちょっとジワっときてしまい、せっかくだから加筆して公開してみようかという気持ちになったのだ。
さて。
運命の沼落ちの2018年から6年経っているが、私は今でも変わらずに、いや、ますます田中圭さんの大ファンでいる。
私はこのような経緯で、俳優 田中圭さんを好きになり、その後は、過去作も含めた大量の出演作品を追い続け、熱心にツイッターに入り浸り、描いた事もなかった絵を急に描き始め、圭さんの映画みたさに疎遠になっていた日本への5年ぶりの帰省もする事となる。ツイッターを通して、心から楽しいことを共有できる友達も増えて、ただただ夢のように楽しかったフェーズを経る。そして、その楽しかった時期の後、私はあり得ない程の大変な状況に陥る事になる。2020年春からのコロナ禍だ。突如あらわれたこの謎のウィルスは世界中で猛威を奮ったわけだが、私の住むイギリスでは初期の段階から大パンデミックを起こす。看護師を生業としている私は、国中が大混乱を極めた初動時から、最前線で働く羽目になり、冗談抜きで想像した事もなかったような恐怖と不安と閉塞感の渦にのまれ、心身共にギリギリまで追い詰められる長い地獄を味わうことになる。そんな中で、田中圭さんを推すことの楽しさが、言葉では言い尽くせない程の心の支えとなり続けた時期があるのだが、その辺のことはまだ文字にして書ける気がしないので割愛する。長くなるし。
たまたま読んだネットニュースとの出会いで始まった私の沼入りと推し活だが、もの凄く苦しかったあの時期も、そしていま現在も、その楽しさにずっと助けて貰っていることを思うと、なにかの僥倖だったのかもしれないと思っている。ありがたい。
とはいえ、この6年で推し活の楽しさの中に混在するツラさを実感する事もすごく増えてしまった。日本にいないために、公開中の映画をみたり、舞台を観に行くことが出来ない。各種の開催されるイベントも配信で視聴できれば まだ良い方で、この配信すら国外制限がかかってみることできない場合も多々ある。映画や舞台観劇の機会をひとつひとつ見送る度に、ツラさは積み重なっていく。ツイッター(現 X )のタイムラインを彩る、みんなのキラキラとした推し活の様子を眺めながら、羨ましさと悲しさで心がぐずぐずと崩れている。こんな感情ばかり味わうくらいなら、もういっその事、推し活から距離をとったらどうか?と幾度となく考えたりもしているのだが、そう思いながら手は無意識にツイッターアプリを開いていて、結局、情報を追いかけてしまっている。好きという気持ちは、まったくどうしようもないものだ。
今現在 遠い日本では、圭さんの舞台が上演されている。私は、やはり見ることは出来ない。何万回目のしょぼくれた気持ちを抱えながら、自分のスマホを何気なく徘徊していたら、この4年前に下書きのまま止まっていたnoteを見つけた。読みながら、私の中にある 好きという気持ちや感動自体は、まったく当時と変わっていない事を改めて実感して、泣き笑いをしてしまった。私は私のために、この 好きという言葉では到底たりない謎のバカでかい特別な感情 を、まだまだずっと面倒をみて愛しんであげたいなという気持ちになった。しょーもないけれど。とりあえず、いつの日か 念願かなって田中圭さんの舞台を観れる未来にでも希望を託していこうかな、と思えた。私、これからも、ずっとファンだと思います。よろしくお願いします。【終わり】