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秋の夜の電車の家路(ドイツ鉄道の話①)

久しぶりに走った。
気がついたら電車の発車5分前。
その晩訪れていた友達のアトリエは商店街から少し中に入った場所にあって、駅までは約500m。10月中旬だけど天気のいい土曜の夜で、町には人通りが多かった。
レストランの外の席でゆったりとデザートを楽しむ子連れの家族のすぐ横を、必死な形相で走り抜ける。多めの荷物を抱えた私たち4人の外国人家族は、怪しくすら見えたかもしれない。

久しぶりに走った。
アジアショップで買った山西刀削麺2kgパックがリュックの中でごっそんごっそん動いている。その隣に入れた焼き海苔140gを圧迫しているに違いない。せっかく書類の入ったA4ファイルを持っているんだからそれを間に置くべきだった、いや海苔もファイルに入れれば素晴らしく安全だった、なんて考えた。今さら遅いけれど。
走って電車に間に合って海苔が割れるのと、電車は諦めて海苔が無事なのとでは、総合的に幸せなのは後者かもしれない。でも前を走る家族は、私の背中で起きている乾麺と海苔のドラマなんて知る由もない。だから私も、彼らを追うのに専念することにした。

駅に着いたら電車は「15分遅れ」の表示。
さすがはドイツ鉄道。
「あ、余裕で乗れる」
とほっとして
「なんだ、走らなくてもよかったんだ」
とがっかりして
「まずい、それだと乗り継ぎの電車に間に合わない」
と愕然とした。
次の駅からの乗り継ぎ電車は1時間に1本なのだ。

すると時間差で隣のホームに S バーンが入ってきた。S バーンはいわゆる各駅停車の鈍行。それでも15分待つより早い。
この電車も5分遅れ。さすがはドイツ鉄道。

乗るのはほんの数分なので、出入り口脇にある横並びの席に腰かけた。通路を挟んだ反対側には液晶大画面テレビくらいの窓があって、その向こうにはフュルト市の町並みが広がっているはずだ。
だけど今日見えるのは、丸く漂う電灯のオレンジ色や、四角く切り取られた部屋の場面々々。ある家庭の台所と他の家庭の居間と残業中のオフィスが、お互い何の関わりもないような顔をしながら同じ黒の中に浮かんでいる。
各々の日常を闇の中に放り出して成る無秩序な大きな塊は、夜毎できては朝日に消えてを繰り返す。その中を電車で貫くのは他の世界からこの世界を覗くような奇妙な特別感があるけれど、普段は私もこの大きな塊の中にいるのだ。

その時突然、左から右にゆっくり流れていくパノラマが現れた。細長く明るい窓の繋がりは、隣の線路を同方向に走る特急列車 IC。
空いた車内を思い思いに過ごす人たちの様子が間近に見える。右から左へカメラを動かして撮った長いショットのように、車両を一つずつ映していく。窓際の席で本を読む長い髪の人、スマートフォンで何か聴く若者、二人並んで座って熱心に意見を交換する年配の女性たち。
プライベートな空間を覗き込む。これにもまた奇妙な特別感がある。

S バーンは16番線に着いた。次の電車は21番線発。この駅は22番線まであるので、たった5つ違いは幸運なこと。
地下道を上がってホームに出ると電車はもう待機していた。行き先を確認して飛び乗る。

電車は4両編成、しかも途中で分かれる4両の編成。
郊外へ向かう電車が初めは一緒に出発して、途中の駅で切り離されて、その先でさらに切り離されて、最終的に4つの目的地に到着するというシステム。
なんとなく刺繍糸を思い出した。母の使っていた花柄の丸い缶には色とりどりの刺繍糸が入っていて、大多数が絡まっていた。刺繍糸は何本か一緒によってあって(6本らしい)、使うときは一本ずつほぐすのだと知ったのはいつだったっけ。

この車両は私たちの町に行く。
別々だけど4人とも座れた。
あとは座って待つだけ。
海苔も無事だった。
車内はほんのり温かい。
よかった。

この安心が長くは続かないことを、私はまだ知らなかった。

(後半に続く→)

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