異邦人であること@Befircan→イスタンブール
昨日、Şemzînanから帰ってきたらお母さんがいなかった。Wanにある病院へ行ってしまったのだという。なんと、、直接お礼を言えないなんて、、本当に悲しい。
朝、お母さんのいない台所で朝ごはんを食べていると、セムロがやってきた。私が今日出発するので会いに来てくれたのだ。
が、セムロはセルダルに対していとこの噂話をノンストップで捲し立てる。延々と続く。とっとと朝ごはんの片付けをしてバルコニーで庭を眺めながらチャイを飲みたいけど、止まらない。
うんざりしていると、不意に「退屈?」とセムロに尋ねられたので、「うん、退屈」と応えた。本当に本当に退屈だ。
ここでは「これは何の時間ですか?」という時間がめちゃくちゃ多い。基本的に明日以降の予定は立てられない。当日の予定だってあやしい。あっちの家、こっちの家を行き来し、チャイを飲みながら延々と噂話や些細な出来事について話している。そうしてあっという間に時間が過ぎてゆき、一日が終わるのだ。
電話の数も半端ない。絶え間なく誰かから電話がかかってきたり電話をかけたりして何十分も話している。特別な用事などない。おしゃべりしたいのだ。
定職に就いていない人もとても多い。村の仕事、家の仕事をしている人はともかく、そうでもない人も多い。日がな何をしているんだろう?
セムロの退屈な話のあとは、セムロの家へ行ってお父さんとお兄さんにお世話になったお礼を伝える。
出発の時間になり、車に乗り込んだところでベロから電話。「エリカ、どこにいる?」息が上がっていた。私を見送るために仕事を早く切り上げて帰ってきてくれたのだ。とても嬉しかった。
セルダルが送ってくれる車にセムロも乗って、3人で空港へ向かう。小さな街の空港なので、空港職員もみんな彼らの友人だ。チェックインでも荷物ドロップでも楽しげに会話している。
7/1のWanでのコンサートで再会するから、2人にはまたすぐ会える。
「また数日後にはすぐ会えるから」と言い合う。寂しくならないように。
2人が行ってしまい、しばらくすると、じわじわと鈍く胸が疼き出す。飛行機に乗り込むとき、村の方へ目を向けると、一層疼きが増す。
中継地のアンカラを経て、イスタンブールに到着。タクシムへ向かうバスの中で日が沈むの眺める。喪失感が襲ってくる。天国のように美しい村。退屈で仕方ない時間。
去年もそうだった。イスタンブールに帰ってきて、泣いていた。
また来年も行きたい。そう思うとき、私は何を期待しているのだろう、と立ち止まり、今年と同じままの村の姿を期待しているのだと気づく。何もかも変化していくのに、変わらずに在ってほしいと願ってしまっている。
「ここは天国だ」とたびたび言う。私の日常からはほど遠い、別世界なのだ。そして、私と村との間に横たわる大きなギャップの、その鮮明なイメージにまた苦しんでいる。
同時に、日常へ帰っていくと、そのイメージが徐々にボヤけていき、痛みが和らいでいくことも知っている。
異邦人であること。その生の感覚を自分の中から取り出して眺める、そういう時間を作り出しているのかも知れない。