最前線で活躍している人たちはみんな繋がっている
昼からワッカス先生の共同経営者のNurêdînと会う。今日もFerayが作っておいてくれていた朝食をたっぷりいただいたので、全くお腹がすいていなかったけど、「さぁ何食べたい?」と問われると「結構です」とは言えない。せっかくいただくならAmed名物のciger(羊のレバーの串焼き)をもう一度いただこうではないか。
今回いただいたcigerもとてもおいしかった。でも、このペースでいくととても危険なのでナンの量は控えめにしておいた。
その後Nurêdînの家にお邪魔する。奥さんと2歳の息子が迎えてくれた。ここではミルクに浸したバクラヴァをいただく。いや、これは絶品。普通のバクラヴァは甘すぎてつらいものも多いが、こちらは甘さもマイルドでとても良い。これが日本にきたら人気が出るだろう。
夕方からはBêrîvanが誘ってくれたイベントに参加する。近年創設された若い出版社pall主催、「写真と証人」というテーマで、公園に集まってセッションする、というイベントだ。ゲストスピーカーとして招かれていた写真家は、このたびの地震や、コバニでの闘いにおいて写真を撮ってきた人だった。
痛みや悲しみがあまりに大きく、シャッターをきることが難しい場面も非常に多い。しかし、写真を撮ることによって、その瞬間の証人、目撃者になるのだ、その写真に係る物語を語る人になるのだ、という思いで撮る。
理解が足りていない部分があるかも知れないが、概ねこのような話だった。
新たな地へ赴くと、新たな感情が起こる。写真を撮るというのはとても私的な行為だ。撮りたいと思うからこそ撮る。思わなければ撮らない。
私はトルコにやってきて、感情の波が非常に大きくなっていると感じている。Geverでは訪れた途端、二人もの人が亡くなった。Amedでは会いたかった人たちを含めて100人以上の無実の人が拘束された。今日は地震の時に撮影された写真をたくさん見た。新しく会う人たちと家族の話をしていると、「兄弟は山で死んだ」という話がしばしば出てくる。
痛みのなんと大きいことか。自然死や災害による死すら負いきれない。その上、暴力や圧力が日常的に存在するなんて。あまりに理不尽で、悲しみと怒りが心から溢れ出す。
涙が止まらなくなってしまった私に対して「えりかにとっては良いことだと思う、だって、クルド人の現実を目撃できるんだから」と言ってくれた。そうか、と膝を打った。ここで目撃する全てを忘れずに覚えておこう。証人になろう。
会が終わり、主催者たちと挨拶を交わす。全員が私のことを知ってくれていた。会いたかった人のうちの一人、ジャーナリストのMirad Bayramも偶然いたが、彼は途中で退席して挨拶できなかった。「Miradも会いたいって言ってたから明日会えると思うよ」。そうなのか。
明日はBêrîvanと共にMiradを訪ねる。