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Serdar Canan コンサートツアー 記憶を継ぐ 魂の歌声

2023年10月8日〜11日、4日間4都市でのSerdar Cananコンサートツアーを開催した。Serdar Cananにとっては3度目の来日。

初来日が2022年5月。この時は京都大学のプロジェクトからの招きで、5月から8月までの4ヶ月間滞在していた。

2度目は2023年1月から2月にかけての10日間。東京藝術大学の招待による。

そして今回。背景事情は色々あるが、単刀直入にいうと私自身が招いた。この大掛かりな推し活について、記録しておきたい。

<Serdar Cananとの出会い〜トルコ音楽修行>

Serdar Cananとの出会いについては、2023年2月3日にコンサートを開催した際の手記にこう記した。

民族音楽学者・音楽家であるSerdar Cananと出会ったのは2022年初夏のことだ。彼は京都大学から招かれ、2022年5月から約4ヶ月間、日本に滞在しており、京都大学や東京藝術大学を始め、日本各地の大学や組織で演奏やクルド音楽についての講演などを行った。そして日本では まだ知られていないクルド音楽の歴史や多様性について紹介し、聴衆を魅了した。

クルド音楽において欠かすことのできない存在がある。“Dengbêj”、直訳すると、”Deng(声) "+”Bêj(言う・思う・伝える)"だ。母語の使用を長らく禁じられてきたクルド人たちは、物理的には残らない”Deng”を通じて、民族の歴史や物語を語り継いできた。その役割を担っていたのが“Dengbêj”だ。
Serdar Cananは、しばしば”Berhevkar”であると紹介される。コレクター、つまり民謡蒐集家ということだ。クルド人が生活する地それぞれに、大切に歌い継がれてきた歌が存在する。

彼はクルドの村、多くのDengbêjを訪ね歩き、叙事詩や民謡を集め、研究者として学術的に論じる一方で、自身の声を通じて自ら表現している。
Serdar の歌声を初めて聴いた時の衝撃は忘れることができない。
Dengbêj たちによって連綿と語り継がれてきたものを受け取り、今ここで表現しているものは、単なる音の連なりではなく、民族の記憶や感情そのものなのだと感じた。

優しく力強く、その奥に深い悲哀を湛えた特別な歌声。
彼の歌声を聴きながら震える心の中に、「彼らの物語をもっと知りたい」という思いがくっきりとした輪郭をもって芽生えた。

そして、コンサートを終えてのレビューをこのように締め括った。

私は、(・・・)Serdarの声を聴きながら、「私の生はこの歌に支えられている」と感じていた。
なぜ生まれてきたのか、生きるのはこんなにも辛いことなのに、それでも生きなければならない。死によって消滅するまで、私はこの生をどう使えばいいのか。ずっとずっと問うてきた。
愛情深い両親のもと、健康な身体を授けられ、何不自由なく育ててもらい、きちんとした教育を受けさせてもらい、衣食住に困らない生活を得ている自分に対して常に問うていた。
私は今、「彼らが大切に語り継いできた物語に寄り添って生きていきたい」と強く思っている。
そうすることで、自分の生をようやく肯定できると感じている。

このコンサートの後、時を経ずして、2023年4月から6月の3ヶ月間、トルコへ音楽修行の旅に出た。

目的は、「どんな暮らしの中でどんな歌が生まれたのかを知ること」、「クルドの歌唱法を学ぶこと」だった。

3ヶ月間の日記はこちら。(ほぼ毎日更新していたが、数人、毎日読んでくれていた奇特な方がいた。)

クルドの歌唱法について、音楽家のAli Tekbaş氏に師事し、現在もオンラインで継続している。

そして3ヶ月のうち、延べ1ヶ月間は、Serdarの実家でお世話になっていた。トルコ最南東部のハッカリ県ユクセコヴァ、その山間のBefircanという村だ。

お母さんが作ってくれた焼きたてのパンと、前年に仕込んで熟成させた手作りのチーズから始まる朝。

乳搾りのために高原へ向かう女性たち。庭仕事をする男性たち。美しい庭でのチャイの時間。結婚式、葬式。

クルドのハレとケをたっぷりと経験させてもらった。なんと豊かな、尊い生活だろうか。今もなお、恋しく思い出している。

3ヶ月の滞在を経て、帰国を目前に控えたとき、胸中をこのように綴った。

数年前に「クルド」に出会い、導かれるようにして今ここにいる。そのあまりに特異で豊かで、全容をつかむことを許さない音楽の虜になった。どんな物語があるのか。どんな生活の中でどんな音楽が生み出されてきたのか。何もかも知りたくて飛んできた。

新たな学び、新たな出会い、刺激的な日々。一つ学べばまた一つ現れる、終わりない旅が始まったのだと感じる。その歩みを進めていくにつれて深まっていく愛。と同時に、愛の裏側にいつもある痛みの存在に気づいた。この痛みはなんなのだろう。
あるとき、コントラバス奏者の河崎純さんのあるブログを読む機会があった。その中で言及されていた「まれびと(=外来神)」という言葉が目に留まる。

「大人になれば、観察者、傍観者という存在と自意識に虚しさも感じます。ふと、芸能者の末端にいる私は、「まれびと」の一種かもしれない、と思いました。「まれびと」はやはり民俗学者、国文学者の折口信夫のいう外来神、芸能者の起源として呼ぶ来訪者です。私には、この街に暮らすクルドの人々も「外来神=まれびと(客人)」にも思えます。反対に、その彼らにとって今日の自分は、「まれびと」のようなものであるのかもしれません。半ば我を失ってコントラバスを掻きむしりながらステージの上で、客席で踊り、旗を振り熱狂する人々見つめている私を、そのはしくれであると自己規定することもできるのかも知れません。」

これを読んだ時、はっと気付かされた。私はいつか去り行く「まれびと」のようなものであるということ。それがここで出会う人々の間でも自明のこととして共有されているということ。そして、その事実に私は無意識にベールをかけていたことに。

少しずつ新しいことを学び、経験が増え、境界線へ近づいていく。しかしどれだけ近づいたとしても、その線を超えることはできない。境界線の向こう側に見える喜びも悲しみも、生のものとして感じることは決してできず、外部の観察者である自己に投影した像を眺め想像しているに過ぎないのだ。

私の人生に彩りをもたらしてくれたクルドの歌。その歌の物語を自分の血の中に持たない私にとっては、それが「私の歌」になることはない。それに気づかされたとき、愛と一体のものとしてあるこの痛みの正体が何なのか、少しわかったような気がした。

今の私にはこれからこの痛みとどう付き合っていけばよいかわからないけれど、境界線の向こう側の物語を想像しながら、焦がれ続けるのだと思う。

帰国してから、Ali Tekbaş氏の歌のレッスンを継続して受け、定期ライブイベントを開催し、音楽活動を続ける中で、コンサートツアー開催を思いたった。

Serdar Cananの声をより多くの人に届けたい、それが表向きの理由で、より真実に近いのはむしろこうだ。Serdar Cananの歌を聴きたい。

<コンサートツアー企画>

開催都市は、クルドの方が多く暮らす埼玉、Serdarが特に熱望した京都と広島、親交の深い方が運営するカフェのある大阪、この4都市とした。

埼玉では前回のコンサートでもお世話になった川口総合文化センター・リリア。他の都市では50名ほどの収容規模の会場を選定した。

そして、前回は急遽全曲コントラバスの即興で参加して下さった作曲家の河崎純さんに、今回も全日程参加していただけるよう依頼した。

埼玉公演に関しては、映像作家の高山剛さんに、撮影を依頼。

選曲に関しては、ビデオチャットで実際に演奏してもらいながら、「今回は前回とはガラッと変えて、より多様性を強調したセットリストにしたい」というSerdarの意向を元に、4時間ほどかけて決定した。

そのセットリストをもとに、河崎さんにピアノアレンジについてのアドバイスをもらったり、二人でリハーサルを行ったりした。河崎さんのようなプロ中のプロで、私にとっては殿上人のような方に「コントラバスでこんな感じで弾くので、ピアノでこんな感じでやったらいいんじゃないか」などと教わる。

即興演奏の経験など皆無の私がこの編成に加わることは、音楽的にはアウトだということは自分でよくわかっているのだが、前回のコンサート後にギタリストの小沢あきさんがかけてくれた「音楽には誰もが参加していいんだ」という言葉に支えられ、「こんな私だけど、こんな私だからこそできる演奏を」と考えながら、コンサートまでの日々を過ごす中で模索していた。

<広報・集客>

集客面については、ほぼ方策なしに見切り発車したため、初めて冷静になって「はて、どうやって集客しよう」と考えた。そう、「コンサートツアーやるそゴルァ!!!」とずっと興奮状態だったのだ。

前回のコンサートに来てくれた方々一人一人にメールを送る、知人にメッセージを送る、自作のチラシを知人や周辺施設に送るというところからスタートする。前回のコンサートでも大変お世話になった「在日クルド人と共に」の温井まどかさんにクルドの方々への告知とチケット販売を依頼。


自作のチラシ1
自作のチラシ2

日が迫ってきてからも売れ行きは芳しくなかったためいよいよ焦りが出てきて、新聞やテレビなど、これまでに取り上げてくださった記者の方々へ掲載を依頼。いつも愛のある記事を書いてくださる東京新聞の出田阿生さんをはじめ、何紙かで掲載してもらった。

東京新聞

そして河崎純さんから、「広島には東琢磨さんがいる。東さんにお話していただく機会が持てれば、より広島の人に興味を持ってもらえるのではないか」という話をもらった。実はその数日前にSerdarに「広島に知り合いはいる?」と尋ねた時も東琢磨さんのことを話していた。そうか、広島には東琢磨さんというキーパーソンがいるのか。

音楽評論家・東琢磨さん。少し調べてみると、そのお仕事の幅広さと量にまず圧倒された。さらっと調べただけでは東さんのお仕事の内容を掴むことなどできるわけがないということがすぐにわかったので、兎にも角にも連絡してみることにした。

Messengerでメッセージを送る。それまでにも何人ものお会いしたことのない人にMessengerで連絡をし、玉砕している。しかし、東さんは、送信してまもなく、「これは素晴らしい!ぜひ、伺いたいと思います。」と返信してくださった。昨年Serdarが京都大学のプロジェクトのシンポジウムの一環で広島で演奏した際、そのシンポジウムで東さんも登壇されていた。その際に、Serdarの音楽にとても心惹かれたそうで、また広島を訪れてコンサートを行うことを非常に歓迎してくださった。さらに、中国新聞と共同通信の記者の方を紹介してくださり、二人ともとても充実した記事を掲載してくれた。

「広報、集客」という視点ではとても大変だったが、その過程で新たな出会いがあったことがとても嬉しかった。

<リハーサル>

初演の数日前、Serdarが来日。羽田空港へ迎えに行き、嬉しい再会を果たした。その二日後に河崎さんと3人での、初めてのリハーサルを蕨の柏屋楽器のレッスン室で行う。

リハーサルを行いながら、キーを変えたり、選曲を変えたり、使用楽器を変えたり、曲順を変えたり、様々な調整を行なっていった。

クルドの音楽に限らず非西洋の音楽ではそうなのだと思うが、西洋音楽の教育を受けてきている我々の体に染み込んでいない拍子やリズムの曲も非常に多い。

2.2.2.3.2.2という13拍子の曲には流石の河崎さんにも笑いが込み上げていた。私はそんな超難曲など早々に回避することを決め込んでいたので、二人の演奏を楽しく聴いていた。

初演の川口公演は二日後。不安もありながら、3人で音楽を作ること自体が楽しくて、あっという間のリハーサルだった。

<初演・川口公演>

10月8日(日)、初演は埼玉・川口公演。前回と同様、川口総合文化センター・リリアでの開催だ。会場へ入ると、前回もお世話になった舞台スタッフの方々が迎えてくれる。Serdarに「前もやってくれた人たちだよ」と伝えると、「今回もよろしくお願いします」と互いに挨拶し合い、和やかな空気が生まれる。リリアのスタッフの方々は、サズ(Serdarも演奏時に使用する伝統楽器)に興味を持って質問してくれたり、照明や音響など何度でも細かく調整してくれたり、本当に温かく寄り添ってくれる。

音響や照明のチェック、リハーサルを終え、開場。舞台裏で開演を待っていると、自分から「きてください」とお誘いした方々から「到着しました。楽しみにしています。」といったメッセージをたくさんいただく。「たっぷり楽しんでくださいね!!」。

開演。舞台へ進み、会場を見渡すと、ほぼ満席であることがわかる。チケットの販売状況は芳しくなかったのに、温井さんの声がけに多くのクルドの方々が呼応してくれて、私がお誘いした方々も多く来場してくれて、新聞を見て当日来てくれた方々もいて、心底安堵した。これだけ多くの人に、Serdarの声を届けられるんだ!

最初は、イラク・クルディスタン・ザホの偉大な音楽家、Ebdulwahid Zaxoyîの「Cavet Ta Gelek Madina」、シルナクの民謡「Rûbaro」、Serdarのアレンジによりこの2曲を続けて演奏する。

「Cavet Ta Gelek Madina」はオリジナル音源でもピアノ演奏が入っているので、そのムードに忠実に演奏することにした。ロマンティックなコード進行を、ピアノのアルペジオで奏で、そこにSerdarの深く甘く、繊細に喉を震わせる声がのってくる。後半には河崎さんの大きく包み込むようなコントラバスが入ってくる。

「Rûbaro」へ移るとメインの演奏はピアノからSerdarのギターへと移る。私はカシシで入っていく。「Rûbaro Rûbaro」、すなわち「小川よ、小川」。山の雪どけ水が小川となって流れていく、その美しい情景を思い浮かべながら。Rûbarのように美しく澄んだSerdarの声に、私の心はずっと震えていて、まだ最初の曲なのに涙腺がゆるんでいた。

川口公演では、クルドの方々もたくさん来場されるということだったので、「皆さんが楽しめるように」というSerdarの意向により、他の公演とは半分以上別の選曲でセットリストを組んでいた。Serdar自身の専門領域の民謡やDengbêjの歌、クルドの方々に馴染みの深い流行歌、地域も新旧も多様な、非常に多層的なラインナップになった。

終盤には1曲日本の曲を、ということで「ふるさと」を二人で歌った。去年来日した時から歌っているので、Serdarの日本語の発音はさらにブラッシュアップされており、聴きにきてくれていたパーカッショニストの伊藤ゆみさんが「Serdarの”ふるさと”、外国人じゃないみたいだったね」と言っていた。心のこもった温かな「ふるさと」だった。

最後の「Hoy Narê Narê」ではクルドの女性たちがステージに出てきて、歌に合わせてダンスをしてくれた。クルドのコンサートではやはり踊りは必須要素だ。私自身も大好きな「Hoy Narê Narê」で会場全体が一体になり、一気に温度が上がる。


大きな拍手に包まれて終演を迎えた。「ここにいるすべての人に、一人残らずその心に、Serdarの声が届いた」と感じた。普段でもSerdarはよく歌ってくれるし、リハーサルでも聴いているのだが、やはりステージでマイクを通して、全身全霊から発せられる彼の声には、何かが乗り移っているのではないかと感じさせられるほど、心を鷲掴みにされる。何曲聴いても、何時間聴いても、その感覚が薄れることがない。卓越した技術、歌に対する深い理解、クルドの声の文化全体への知識、自分自身の経験、何もかもが総動員され、表現に結びついているのだろうと思う。

終演後にはクルドの方々、日本の方々問わず多くの方がSerdarや私のところへ「素晴らしかった」と声をかけにきてくれた。

来場してくださった、パーカッショニストの立岩潤三さんがこのように感想を書いてくれた。

昨年蕨で直近で聴いたあの声に心動かされ、今年も都合つけて観に来られてホントに良かった!!クルドと一口に言っても言語も多種、エリアによって様々なカラーを持つその音楽を、歌手&楽器奏者でありながらも研究者という別の側面を持った氏ならではのコンサート。(・・・)Serdarさんのクルド特有の様々な歌い回しや、伸びのある高音、しかしそれ以上に自分の中の何かを鷲掴みされる…自分のどこかに激しく訴えかけてくるその「音楽」にやはり心奪われます。

私を突き動かしているのは、「自分のどこかに激しく訴えかけてくる」、まさにこの感覚。

その感覚を皆さんと共有できたことが嬉しく、その場を作ることができたことをとても誇らしく思った。

開演前から、会場の外では大声で叫ぶ人々の声が聞こえていた。実は、この日、ヘイトのデモが行われていた。当初は駅の反対側での実施が予定されていたのに、当日会場のすぐ前に場所が変更されたという。コンサートへ多くのクルドの方々がやってくることに対してぶつけてきたことが明らかだった。後から温井さんから聞いたところ、ヘイトデモに対して、多くの仲間がカウンターのデモを行い、抵抗してくれたというのだ。その方々に守られ、私たちは音楽を楽しむ時間を持つことができた。心から感謝したい。

<京都公演>

川口公演を終えて、すぐ身支度を整え、その日のうちに京都へ移動。翌日の昼には京都公演が控えていた。

10月9日(月・祝)、京都公演。会場は平安神宮、南禅寺、哲学の道などのある岡崎のNAM HALL。普段はクラシックのコンサートをやっている会場だ。事前に見学をさせていただいた際に、その環境の素晴らしさに即決した。オーナーの中元さんもとても気持ちの良い方で、ありがたい提案をいくつもしてくださった。

京都公演には私の両親と叔母たちが来てくれることになっていた。Serdarと私の共通の知人であるイランのクルド人ヤコブさんとその奥さん、その他にもSerdarの友人のクルドの方々も来てくれるということだった。

京都のセットリストは、川口公演とは違い、Serdarの専門領域である民謡が中心。「クルディスタン」はトルコ、イラク、イラン、シリアにまたがるエリアであるが、クルディスタンのあらゆるエリアを網羅する選曲になった。エリアが異なると、歌詞に使用されている方言も異なる。京都にお越しくださったクルドの方は「ソラニー方言」の話者の方ばかりだったので、Serdarは「京都では特にソラニー方言の歌を」ということで選曲していた。それから、Serdarの演奏を聴いてとても好きになった「Şerfedine」というヤズィーディー教徒の歌もセットリストに加えてもらった。

「Emê Gozê」というDengbêjの歌に関して、川口公演で演奏した際は、私のピアノが良い演奏ではなかったので、京都公演では歌のイメージに合うように修正した。

終演後は、私の家族やクルドの方々、私の友人、すべてのお客様と話す機会が持てた。

東京からわざわざ聴きに来てくれていた自身も歌手の桑原ゆきさんは、後日このように感想を書いてくれていた。

素晴らしいとは聞いていましたが、想像を越える声の力。喜び、嘆き、願い、慈しみ……そんな無数の感情が言葉を超えてダイレクトに流れ込み、涙が溢れるのを止めることができませんでした。

桑原ゆきさんと


「言葉を超えて」そのように受け取ってもらえたことが本当に嬉しかった。

<大阪公演>

大阪では、去年もSerdarがコンサートを行ったことのある会場、箕面市にある「comm cafe」。クルドの方々との親交が深い岩城あすかさんが運営に関わっていらっしゃる会場で行う。音楽用に作られた会場ではないので、よりお客様との親密な時間を作れるよう、構成を練った。ピアノがないので、私は演奏ではなく、詩の朗読という形で参加することにした。

1曲目はSerdarによるソロ演奏。「Kele Kela Germa Havînê」。Şivan Perwerという、クルドの音楽家の中ではおそらく世界的にも最も有名な音楽家による、真夏の灼熱の太陽の下で働く労働者のために歌われた歌だ。サズ奏者のFUJIさんにお借りした「ディワンサズ」という、サズの中でも一番大きなサイズの、深く低音の響くサズを用いて演奏する。この歌では、Serdarの音域の広さと声量と技術、その声に含まれた深い悲哀の情感、すべてが存分に感じられる。

歌い始めた途端、観客が一気にグッと惹き込まれたことが目に見えて感じ取れた。


聴きに来てくれていた私の大学時代の先輩が「みんな自然と泣いてた」と後に教えてくれた「Henasey Aşiqan」。私も泣いていた。Serdarがこの曲を歌っているクリップをYouTubeにアップしていて、もう100回以上聴いていると思う。それでも毎回毎回心打たれるのだ。私が学ぶクルド語は「クルマンジー方言」。一方この歌は「ソラニー方言」。しかもその中でも古い言葉で書かれているらしく、歌詞のはっきりとした意味はわからない。それでも音がダイレクトに心に突き刺さり、激しく揺さぶられるのだ。大阪公演で私と同じく涙した人たちは、どのように感じたのだろうか。

ところで、第2部開始の冒頭では、私自身の話をさせてもらった。なぜ今回のツアーを開催するに至ったのか。クルドとの出会い、Serdarとの出会い、Befircanでの暮らし、その時着ていた衣装がSerdarのお姉さんからプレゼントしてもらった伝統衣装であること、使用している楽器の説明、長い話になったが、たくさんの質問をしてもらえて、大きな関心を持ってもらっていることがとても嬉しかった。

<広島公演>

10月11日(水)、ツアー最終公演は広島。平和記念公園から程近い「クリスタルプラザ」というビルの19階にあるライブハウス「Live Juke」で行った。ツアーを行うにあたり、「広島では必ず行いたい」というSerdarの強い希望があった。彼にとって、また多くのクルド人にとって、広島というのは特別な存在だ。

「ハラブジャ」という街について、少しでも知っている日本人はどれくらいいるだろうか。ハラブジャというのは、イラク・クルディスタン東部にある街の名前だ。サダム・フセイン政権下の1988年3月16日、このハラブジャに化学兵器が使われ、多数の住民が殺害された事件だ。死者5,000人、負傷者10,000人にものぼると言われている。この悲惨な出来事を経験したクルド人の多くが、同じく化学兵器によって多くの人が殺された広島・長崎に対して特別な感情を持っている。

この出来事によりトルコ・クルディスタンに逃れ、「Helepiçe Hîroshîma Kurdistanê」という曲を作ったHesen Şerifという音楽家がいる。Serdarはこの曲を、広島公演のみで特別に演奏することを、すべての演奏曲の中で最初に決めていた。

私は2019年にハラブジャを訪れた。ハラブジャの悲劇の記録が収められている博物館で見た写真や遺品の数々は、今でも脳に焼き付いている。ハラブジャの出来事は、その歴史の中で多くの悲劇を経験しているクルドの人々にとっても、特に忘れることのできない、決して忘れてはならない、最大の悲劇だ。ハラブジャには「広島通り」という通りがある。ハラブジャ市長は毎年8月に広島を訪れている。これらの事実も日本ではほとんど知られていないだろう。

Serdarは、「去年、平和記念資料館を訪れたとき、心が痛みすぎて、ここにはいられないと思った。すぐそばにいた日本の学生たちが笑っていた。なぜこれを前にして笑えるような状況が生まれるのだろう、と疑問に思った。我々クルド人は歴史に対する執着心が日本人よりも強いと思う。それが良いことなのかはわからないが、それでも忘れてはならない出来事はあると思う」と語っていた。

「Helepiçe Hîroshîma Kurdistanê」の中に、「広島からハラブジャに手紙が届いた」という歌詞がある。この歌が、ハラブジャから広島への、クルドから日本への手紙になればいいのに、と願う。

さて、広島公演は、前述の音楽評論家・東琢磨さんと、河崎純さんとの対談からスタートした。去年のSerdarとの出会いについて、広島の移民について、川口は蕨のクルド人の生活、彼らとの関わり、日本人が彼らの音楽を演奏することについて、内容は多岐に渡った。この対談だけで2時間は組めそうな密度だったが、その後に演奏を控えていることもあり、二人とも意識的に抑えめに話されていた。東さんから、「この後、演奏がありますが、まずは演奏を聴いて、音として受け止めて、その後、それがそのような歌なのかを解説する、という流れでお願いしたいと思っています」とお話をいただいた。私自身も解説→演奏よりも、事前知識なく声を感じてほしいといつも思っているので、その提案をしていただけて嬉しかった。


東琢磨さんと河崎純さんの対談

4日連続の4日目ということで、常軌を逸した強靭さを持つSerdarの喉にも疲れが出始めていた。しかし、この日は、Serdarも、河崎さんも、特に想いを一層乗せて演奏し歌っていたように感じ、何度も涙が込み上げた。一曲一曲、丁寧にメモをとってくれている東さんの姿にも、Serdarは喜びを感じていたようだった。

全公演で演奏した「Cavet Ta Gelek Madina - Rûbaro」、Melayê Cizîrîの古い詩「Gûlnîşan」、Wan周辺の地域のDengbêjの歌「Emê Gozê」、ソラニー方言で歌われる子守唄「Lay Layê」、ヤズィーディー教徒の歌「Şerfedine」、ハッカリの民謡「Sûlavê」「Hay Gûlê」「Narînê」「Dîno」「Gurgo」「Ho Ho Leylo」「Şamiranê」、何度聴いても心打たれる「Henasey Aşiqan」、ハッカリからジズレ周辺のDengbêjの歌「Heyranok」、そして広島では日本の歌「なごり雪」を二人で歌った。

Serdar Canan、河崎純、という二人の卓越した音楽家と共演させてもらうには、私のピアノの演奏はあまりに未熟で、できることがとても少ないのだが、それでも参加させてもらえたことは私の経験としてとても大きなことだったし、もっと歌に近づけるような演奏をしたいという気持ちを強くした。


この日は事前に記事を書いてくれた共同通信の小作さん、中国新聞の道面さんも来場してくださり、公演を絶賛してくださった。

小作さんは、後日メールでこのような感想を送ってくださった。

先日のコンサートでは、素敵な歌と演奏を聞かせていただき、ありがとうございました。心にじんわりと響き、ひたひたと余韻を味わっています。(・・・)次の来日が今から楽しみです。わたしもどこにいるか分かりませんが、どこからでも駆けつけるつもりです!

「どこからでも駆けつける」。記者の方が、取材対象として、たくさんある仕事の一環として見ている以上の感情を抱いてくれたのだ、ということに、また喜びを感じた。

終演後は、東さんが打ち上げに誘ってくださった。集まってくださった皆さんの中で、広島という地をどのように見るのか、外からの視点、内からの視点、また外からの期待と実際とのギャップ、広島に暮らす東さんや皆さんの持つ憤りやもどかしさなどさまざまな感情、「広島」をめぐるさまざまな話が繰り広げられた。私は積極的に会話に加わることができずとても恥ずかしかったのだが、この夜、広島に一歩踏み込んだ感覚を得た。日本人として広島の今を捉えることはとても大切なことではないか、と思っている。

<コンサートツアーを終えて>

広島公演の翌日、Serdarと平和記念公園を訪れた。その時、こんなことを言ってくれた。

「これは自分の意見だけど、えりかは日本の歌も歌った方がいいと思う。君はクルドの歌を知っている。日本の歌を歌っている人は他にもいるだろうけど、クルドの歌を知っていて、日本の歌も知っている、という人はいない。日本の歌を集めて歌ったらとてもいいと思う」

この言葉を今もずっと反芻している。

トルコ音楽修行から帰国する直前の手記に、「私の人生に彩りをもたらしてくれたクルドの歌。その歌の物語を自分の血の中に持たない私にとっては、それが「私の歌」になることはない」と書いた。どれだけクルドの歌についての知識を身につけたとしても、クルドの歌唱法を学んだとしても、私が「本物」のように歌えるようになることはない。それでもクルドの歌を知りたいし、歌いたい。なぜなのか。守りたい、伝えたい物語を彼らが持つことへの憧れ、全身全霊で表現したいものがあることへの憧れが根本にある。その物語、その歌をもっと知りたいし、もっと近づきたい。とても素朴な欲求だ。

さて、しかし、「私の歌」とは何なのだろうか。今回のツアーを終えて、今私はこれについて考えている。「私の歌」とは何なのだろうか。私は日本の歌を知らない。西洋音楽の教育を受ける我々の多くは「日本の音」「日本のリズム」を知らないし、理解できないだろう。もし知っていたら、「私の歌」と言える歌を持っていたのだろうか。「クルドの歌」。これほど強く心惹かれ、知りたい、近づきたい、と焦がれていても、やはり「私の歌」ではないのだろうか。もし今そうでないとして、これからも「私の歌」になることはあり得ないのだろうか。母語で歌われる歌しか「私の歌」にはなり得ないのだろうか。

今、私は「日本の歌」を訊ねてみたいと思っている。それは、強い欲求によってアプローチし続けている「クルドの歌」に対する態度とは全く異なるものだ。むしろ、驚くほど無関心だ。この無関心はわずかな知識すら持たないことの表れでもある。母語で歌われながらも、我々の多くから忘れ去られている「日本の歌」に出会った時に、自分がどう感じるのかを探ってみたい。「私の歌」を探究する旅は、これから大きく変化していきそうだ。

「Serdar Cananの歌を聴きたい」、この極めて私的な、素朴な欲求に突き動かされて仕組んだコンサートツアー。

全日程に河崎純さんが参加してくださったことにより、コンサート全体において音楽的価値が何倍も増したことは言うまでもない。企画段階から、未熟な私に対して、ご自身の豊かな見識をもって惜しみなく様々な助言を与えてくださったことに、言葉を尽くしてもこの感謝の気持ちを表すことはできない。本当に本当にありがとうございました。

前回同様、今回もクルドの方々への告知、チケット販売、当日の受付から集計に至るまで、様々なサポートをしてくださった温井まどかさんとそのお仲間の皆様。「大丈夫ですよ」準備段階から温かい言葉を何度もかけてくださった温井さんがいらっしゃらなければ、川口公演の規模の公演は成立しえなかった。心から感謝と敬意を伝えたい。いつも本当にありがとうございます。

「川口公演を、どうかくまなく撮影してください」という依頼を快諾してくださり、3名、カメラ5台体制で収めてくださった高山剛さん、クルドの方々との親交が深く、また私の活動に共感してくださっているいうことから、進めてくださっている編集作業も含め、プロの仕事を授けてくださっていることに心から感謝を伝えたい。ありがとうございます。引き続きよろしくお願いいたします。

広島公演で登壇くださり、その多岐に渡る知識と経験をお話に込めてくださり、公演内容を一層深めてくださったことに留まらず、お仲間へのお声がけ、広報面のご助力など、お世話になったことを挙げればキリがない東琢磨さん。東さんに出会うことができて私は本当に幸運に恵まれました。ありがとうございます。

東さんが広島公演の翌日このように書いてくださっていた。

昨夜のセルダル・ジャーナンさんのライブ、素晴らしかったです。
セルダルさん、河崎さん、上田さん、来場いただいた方々、ありがとうございました。
昨年、違うフレームで広島に来てくださったセルダルさんが、東京で知り合った新しい友を引き連れて広島に戻ってきてくださったわけで感無量。
それにしても、やはり圧倒的な声の存在感に震撼しました。
河崎さんとのトークも聞きたいこと山ほどあったのですが、あえてセーブしたものの、話していて非常にためになりました。
「クルド」「クルド音楽」の魅力の謎が深まった感じがします。
昨年もホントに感動したのですが、シンポの中ということもあり、本格的なライブ(トーク、休憩含め2時間半)で聞くとやはりこれまたまったく違う体験となりました。

これを読み、そうだ、Serdarが広島に連れてきてくれたのだ、とハッとした。

Serdarがここまで連れてきてくれたのだ。振り返ると彼に導かれるように歩いてきた道のりが随分と長くなってきたことに気づいた。

Serdar Canan。圧倒的な声の力と、豊かな知識と経験により、一人の人間の人生をこれほどまで揺さぶる驚くべき存在。

私はまた混沌の中に引き込まれた。今回のコンサートツアーを経て、「私の歌」をもう一度問い直さねばならないと考えるに至った。そして、問い続ける中でおそらくまた別の問いがでてくるはずだ。その終わりのなさの中にいることに、「ああ、私は自分の人生を生きている」という幸せを感じている。

早速クルディスタンの大手メディアから取材を受けたSerdar

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