「日本のクルディスタン」を求めて -みちのく一人旅-
以前、岩手県出身の知人であるカフェバグダッドさんが「岩手県がクルディスタンと重なる部分がある」と話していて、それがずっと気になっていた。
そこで、「日本のクルディスタンを感じに行ってみよう」と思いたち、岩手県・北上市へ向かった。
今回の旅で、私が最も影響を受けた出来事は、成島兜跋毘沙門天立像と達谷窟毘沙門堂、二つの毘沙門堂を訪れたことだった。
<成島兜跋毘沙門天立像>
征夷大将軍・坂上田村麻呂がこの地を平定した際に建立したと言われる毘沙門堂(慈覚大師建立説もある)。
ここには、高さ4.73m、ケヤキの一木調成仏としては、日本一を誇る兜跋毘沙門天立像(=その化身としての坂上田村麻呂像)がある。
土地の神である地天女に両足を支えられて厳しい表情で立ち、二体の鬼(法華経を聞いて鬼神から善神になったと言われる)を従えている。
ちなみに「兜跋」とは、中国の唐時代の兜跋国、現在のチベット・ウイグル自治区を指し、この様式は、805年頃、唐より帰国した最澄、翌年帰国した空海等によって日本に伝えられたと言われている。
<達谷窟毘沙門堂>
岩にめり込んだようなこのお堂、「懸崖造り」という様式らしい。映える〜
この達谷窟毘沙門堂は、「田村信仰(坂上田村麻呂への信仰)」の象徴と言われている。
(ここには、源義家が馬上から岩壁に弓で矢を放って彫り付けたと伝承されている「岩面大仏」もある。)
二つの毘沙門堂をめぐって、どうしても引っかかったことがある。
それは、坂上田村麻呂の蝦夷制定を「偉業」とし、毘沙門天を祀り、信仰の対象になっていることだ。
もちろん、正史は勝者によって書かれるから、当然といえば当然なのだけれど、
「蝦夷制定」という表現もあくまで勝者によるもので、征服された側からすると彼らは侵略者。
この地を征服するために蝦夷同士を争わせたり、懐柔策をとったりということもあったという。
これはある意味常套手段で、クルドの歴史にもそのまま重ねられる。
朝廷側の圧倒的多数かつ精鋭部隊に対して蝦夷側はゲリラ戦で応戦し、善戦を続けていたが、坂上田村麻呂が大将軍となってからの戦いで劣勢に立たされる。
田村麻呂は蝦夷の長であるアテルイとモレを従えて上京、「蝦夷馴化のためには彼らの協力が必要」と助命を訴えたが、却下される。
そして、2人は処刑される(和議のために上京したにも関わらず騙し討ちにあったとも言われる)。
地元の人たちは、坂上田村麻呂を、彼を祀ることをどう思っているのだろう。蝦夷のことをどう思っているのだろう。
自分のアイデンティティをどう考えているのだろう。
旅から帰り、どうにも気がかりだったこの点について少し考察してみたいと思った。
福岡県立大学の岡本雅享氏によって「アジア太平洋レビュー 2011 」に寄稿された興味深い論説を見つけたので紹介したい。
https://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/pdf/review_2011-01.pdf
本文より、以下いくつか引用する。
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伊藤満 は、2001年、漫画『北の将星アテルイ』出版に あたって、こう述べている。「合戦の場所が明確であった上、現在の地名由来となったエピソ ードにも脈絡があり、ただの昔話や民話でなく 史実と思い込んでしまった。わが郷土には恥ず べき先人がいて、正義は都に存在したのだと、 負い目にも似た思いを強く抱かされたのだ。十 数年後、私はアテルイの名を知ることになる。
......調べてみると悪路王と同様、坂上田村麻呂 と一戦を交えた人物であることが分かった。ま た田村麻呂は大和朝廷の手先であり、陸奥国へ の進軍は悪人退治ではなく、侵攻であったこと を知った。以来、アテルイは郷土の先人の濡れ 衣を晴らし、私自身の誇りを回復させてくれる 存在となった。侵攻に抗したアテルイが悪のは ずがない。......長い間、恥ずべき存在と考えて いた先人への償いに、アテルイの武勇伝をマン ガにしようと考えるようになった」。
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『岩手日報』(1991年5月8日)の「人」欄で、 「アテルイを顕彰する会」の藤波隆夫会長(当 時)は、アテルイの顕彰活動を行う理由を聞か れ「坂上田村麻呂、源頼義・義家親子など、東北を征服した人物だけが称賛される。地元の 英雄の敗者復活という気持ちがある」と答えている。(・・・)逆賊とされたアテルイを、あえて英雄として再評価する動きが、1980年代の東北地方で起こったのである。だが、東北住民が目指したのは、単なる歴史としてのエミシ観の再考ではない。近現代以降の日本の東北観 を払拭し、今の東北に誇りを持ちたいという願 いが、そこには重なっているのである。
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高橋克彦は(2003年)こう述べている。「20年ぐらい前(1980年代前半)まで 東北のほとんどの人たちが、自分たちは蝦夷ではないと思っていたと思う。それは蝦夷=アイヌという時代があったからだ。アイヌの人たちと自分たちはたぶん違う。そうすると、自分たちは何かというと、坂上田村麻呂が東北を平定した後に移住してきた民の末裔であって、自分たちは蝦夷ではない、そういう認識だったと思う。ところが、その後いろんな研究が進んでき て、蝦夷=アイヌではないと定説化されてきた。 それで、初めて東北の人たちが自分たちは蝦夷 だったんじゃないかと感じ始めていった」。 日本では長らく、蝦夷アイヌ説と蝦夷日本人 説が拮抗してきたが、そうした二者択一ではな い―言い換えればアイヌでもない、ヤマトでもない、固有のアイデンティティが、アテルイの 復権と連鎖しながら、覚醒し、醸成されてきたといえよう。
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アテルイを評価する動き、ルーツをヤマト民族ではないところに見出す動きなどがあったことを初めて知った。
実は成島兜跋毘沙門天立像へは、カフェバグダッドさんが「岩手の真髄へご案内します」と言って連れていってくれた。
当初は、「この地域において坂上田村麻呂がいかに重要な人物であったかがよくわかる」という意味に捉えていたが、
ここにきて、「なるほど、東北人とは何者なのか、そのアイデンティティをめぐる問題へ繋がっていたのか」とスッと腹落ちした。
先の論説の中でも紹介されていたように、高橋克彦の小説『火怨』など、アテルイに焦点をあてた作品が実はたくさんあるようなので、今後あたっていきたい。
その他、旅中に印象的だったことをポツポツと。
<男山からの眺望>
駅から北上川にかかる珊瑚橋を渡り、南東へ約5kmの男山へ。
市の観光情報サイトでここからの眺望を写した画像を目にして、これはぜひ見てみたいと思った。
北上川とそこから分かれる和賀川 雄大な二つの川を臨むことができた。
普段嫌と言うほど隅田川を眺めているけれど、それとは全く違う、野性味溢れる雄々しい姿。
ただひたすら心を打たれて、喉の奥がキュッとなる。
ディヤルバクルで城壁の上から見た、バトマンの丘の上から見た、あのチグリス川の姿と重ねた。
川と、その川と一緒に生きてきた人の歴史が、こうして流れていっているのだな、と強く感じた。
<北上線の車窓>
北上と横手を結ぶ単線。乗り鉄、と言うわけではないが、ローカル線が好きだ。
中でも、スリランカの「世界一美しい車窓」と言われる高原列車、インドのニルギリ山岳鉄道、これらの経験は格別だった。
そして北上線。1日の運行は下り4本、上り5本の中でうまくやりくりして、北上ー横手間を往復した。
片道1時間、往復2時間程度の列車旅、全く飽きることがなかった。
一面黄金色の稲穂、手を振るように一斉に揺れるススキ、可憐に咲くコスモス、さらさらと流れる小川、大きな鏡のような錦秋湖、
葉っぱはまだまだ緑色が大部分を占める中で、赤やら黄やらに染まり始めていて、まるで遠足の前夜のように、みんなソワソワワクワク準備していた。
<台温泉・中嶋旅館>
「台」はアイヌ語で「森林」を表す「タイ」に由来しているらしい(実際の読みはダイオンセン)。600年前に発見された源泉だそう。
中嶋旅館は宮大工によって造られた木造4階建の建築。鄙びた温泉街を歩いていくと、その突き当たりに風情たっぷりに現れる。
私が文豪なら筆が進んで進んでしかたなかっただろうな。良き温泉、良き旅館でした。
<遠野物語>
柳田國男「遠野物語」で知られる遠野へ。北上山地のおへそにある町。
花巻と釜石を結ぶローカル線で向かう。ちなみにこの釜石線の全24駅にエスペラント語の愛称がついている。宮沢賢治の作品によく用いられたからだそうな。
(花巻駅は「Cielarko(チェールアルコ・虹)」、遠野駅は「Folkloro(フォルクローロ・民話)」)
さて「遠野物語」は遠野に伝わる伝説や昔話がまとめられた民俗学の金字塔と言われる作品で、山の神、山女、雪女、天狗、川童(かっぱ)、オシラサマ、オクナイサマ、ザシキワラシ、コンセイサマ、多種多様なキャラが登場する。
富山にも「立山信仰」があるけど、四方八方山に囲まれた遠野にもやはり山岳信仰があることがわかる。
昔から人々は自然を畏れて敬って生きてきたんだなぁ。
柳田國男は、従来の歴史学を偏ったものと批判、名もなき人々の歴史や文化を明らかにしたいと考え、郷土研究に尽力してきた。日本各地を訪れながら。
何を考えてこんなことをしていたのか、「とおの物語の館」で知ることができた。
そういえば兵庫県にはどんな伝説があるのだろう、何も知らない・・・。柳田國男の故郷でもある兵庫だ、調べてみよう。
<樺山遺跡・国見山廃寺跡と展望台>
国見山一帯は、「国見山廃寺跡」として、700を超える堂塔、36の僧坊からなる一大寺院であったそう。なんと国内最古の山岳寺院だとか。
先日の男山よりも少し高い244mの国見山の頂上には展望台があり、北上市や奥羽山脈・北上山脈などの山々も見渡せる。なんて豊かなんだろう。
展望台へ向かうルートは色々あったようだけど、ほとんど道なき道、という感じで、日も落ちてきて少し不安になりながらも辿り着けて安心。
やっぱり北上にまた戻ってきてよかった、と思った。
<一ノ関の居酒屋「こまつ」>
友人であり、うちの宿のロイヤルカスタマーでもある大浦さんが先日訪れていた一ノ関の居酒屋「こまつ」。
今回の旅の最後の夜はここへ。
大将がスーパーフレンドリーで、地酒を中心とした日本酒の揃えも良く、料理もとても美味しかった。
特にカツオの塩たたきは絶品。初物のサンマも気仙沼から少量ながら入荷していた(今年はサンマが本当にいない)。
常連さんで賑わう様子を見て、「こういう店は、インフラに近い存在なんだろうな」と感じた。
大将の仕事っぷりを眺めながら、「心を込めて仕事をする」ことについて、しみじみと考えさせられた。
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