他人に迷惑をかけたくないから自粛するという生き様
「自分がかからないために」ではない、「他人にうつさないために」「あなたの大切な人のために」外出を自粛してください。
緊急事態宣言の存在しない世界線でこの言葉を聞いていたら、日本人が好きそうな言葉ではあるけど、さすがに美しすぎるのではと感じていたと思う。だけど今は、本当にその言葉通りの行動ができる。
なぜ他人にうつしたくないか、なぜ大切な人を守りたいかと言われると、結局は、いざ他人にうつしてしまったときの非難が恐ろしかったり、大切な人がいなくなったときの悲しみに耐えられそうもなかったり、「自分が苦しまないため」と言ってしまって良いはずだ。だがそれでも「自分がかかることで苦しむ」ことよりも胸にのしかかるものがある。
外出自粛期間になり、当たり前だが、人と会う回数が激減した。
私には、目をそらしたかった自分がいる。恐らく「人の平均値より、孤独を感じない、寂しいという感情が欠落している」という自分だ。目をそらしたかったのは、なんだかちょっと、むずがゆくて恥ずかしい……関西弁で言うところの”イキってる”感覚があるからだ。「私、寂しいと思うことないねん」なんだか、痛々しい。強がっているようだ。
それも含めて、他人と問題なくコミュニケーションを取って生きて来た自分のことを、そういう人間だとも思えなかった。だけど、どうも寂しくないのだ。あれ? いつから私はこういう人間だったんだっけ。
私は平日が仕事で土日祝が休みの30代会社員だ。土日は、片方は家にいて片方は誰かと会って遊びに行くというパターンが多い。20代の頃は、空いている休日など、半年はなかった。むしろ、予定が1つしかない土日もほとんどなかった。2つ以上の予定をはしごし、たくさんの人に会って、忙しいと感じない忙しい休日を謳歌していた。
だけど、他人といると、必ず、感情が動く。
さて今のこの言葉からイメージしたのは、ポジ・ネガどちらだろうか。ポジティブな感情を浮かべた人は、何らかの形で他人と関わり合いながら生きていく人、ネガティブな感情を浮かべた人は、自我を大事にたとえ家族がいても本当の意味では一人で生きていく人です。なんて、心理テスト風に言いたくなっただけで何の根拠もありません。
答えは、どちらもだ。自分じゃ思いつきもしないようなことを言われて笑顔になったり、ふとした言葉に傷ついて悲しくなったり。とにかく、感情が動く。嬉しい!とかムカつく!とか、色々。私は、それをとてもとても面倒に感じるようになってしまったのだ。正確には「感情が動くことに」ではない、「感情を動かすことに」。
折角一緒にいるんだから楽しませないと。今言ったことで嫌な思いさせてないかな。そうやって他人に迷惑をかけているのではと考えることが本当に面倒で、ならばもう関わらないほうが楽じゃないかと考えるようになったのだ。
そう考える度に、一人でいる時間が増えていったのだが、「迷惑をかけているかも」と思いながらやりたいことをやるよりも、一人でやるほうがずっと気が楽だったし、そこに寂しいという感情は生まれなかった。先ほどの心理テストじゃないけれど、「何をするか」と「誰とするか」どちらを重視している人間か。そこなのかもしれない。私は圧倒的に「何をするか」のために生きている。だから、他人と共に過ごすことが「何か」のコンテンツとして楽しく成立しないと、申し訳なさを感じるし、苦しいのだ。「誰とするか」を重視して生きている人にとっては、私といるだけで楽しいと、会話に意味なんかなくていいと思ってくれるのに。
ここで冒頭の話に戻る。
何が言いたかったって、話がそれにそれてしまったが、「他人に迷惑をかけたくないから自粛する」これって、私の人生そのものなのだ、ということだ。今現在、だけどね。
人生は、ウイルスよりも続く、恐らくは。私はいつまで自粛するんだろう。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?