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糺の森

京都に来て1年目の初夏、下鴨に引越した。
長く住むかもしれないし、住まないかもしれないと感じながら、
この地に来たことを承諾して頂く願望があったのかもしれない。
氏神様へ引越しの21日参りを開始した。
祈願目的ではないので、「おはようございます。」と挨拶して出勤した。

これがはじめての下鴨神社との出逢いで、毎朝の挨拶あとは糺の森を抜けていく。

21日参りを終えても月に何度かは参拝したし、スーパーに出かける日、旅行に行く日と糺の森を抜けることは、生活の一部になり、どこにいても下鴨に繋がっている感じがした。

翌年に式年遷宮を控えたタイミングの引越し、下鴨という土地が新しく生まれ変わり新しく始まる時期にこの地にいたことは幸せだったと思う。

糺の森に慣れ親しんだ頃、水の豊富さに驚かされた。
目に見える水だけでなく京都全体が水の都と言っていいほど、地層深く浅く水脈が縦横無尽に流れ、その流れは地球のそして宇宙のエネルギーを循環させる源で神仏のエネルギーにも、人々の歴史の蓄積にも関わっていることを知った。

水脈は、気脈とともにあり、下鴨神社や糺の森には大きなエネルギーで覆われそして運ばれている。京都市を覆い尽くすほどの大きな神様は、鞍馬山を超え、福井県・日本海側まで繋がっている。ひんやりとして大きく、温かく包んでいく神様だ。

糺の森は大きな浄化のエネルギーだ。

ここを通るたび、下鴨の神事を経験するたび、私自身が忘れていた過去を意識下で追体験し、過去を手放し、一つ一つカルマを解消していったと思う。

2回目の葵祭(賀茂祭)を見るタイミングで市バスに乗った私は、上賀茂神社に向かっている時、下鴨神社を出発した行列の間に乗車バスが並んだ。バスの中からふと比叡山に目を向けると突然涙が溢れてきた。とめどなく涙だけが流れ、許された気持ちになった。

これは、巫女や僧侶だった時代の一つのカルマ解消だった。
制限や批判を手放す一つのきっかけになっていき、一つの過去世を思い出す経験だった。そうして、スピリチュアルという世界が一層身近になっていった。

私は、糺の森で浄化され清められ、プラーナでエネルギー補給し、大小様々なスピリット達に助けられる日々を過ごした。ここでは、八咫烏もメッセージをもって現れるので日々学びは続く。

変わらぬ日常を過ごしていても、糺の森はそばにあって、ちゃんと四季を感じる、本当に豊かな時間だった。私は、浄化を繰り返して、魂のグラデーションを明確にしていく。今の自分であることで許されるのだ。

臆病なのも、ジャッジするのも、魂の癖。
慣れ親しんだ繰り返す癖なのだ。
それを手放すことは、容易ではないけれど、
そのことが明確になることで、生きやすくなるのだ、
呼吸が楽になって、自分を生きるのだ。

もう、先々だけを見つめるのではなく(妄想を膨らませるのではなく)
「過去」を「未来」をただの「経験」とすることで(経験することが豊かさだと気づき)今を生きることに夢中になるのだ。

「あなたは、どう生きていくか?」
「あなたは、楽しく生きているか?」

糺の森を歩く日常でまた一つ一つ浄化されていく。
この大きな森に触れて浄化されていく。


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kanata
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