ぶちまける話
つい3日前、朝ご飯を作っていてコーヒーを淹れようと粉をフィルターに入れた。ふと何かが床に落ちてそれを取ろうとしゃがんだ拍子に、フィルターごとコーヒーの粉が宙に舞い、床に見事に散らばった。私は絶望した。
今から淹れたてのコーヒーと朝食を楽しむ予定だったのに、床を掃除しなければならないのか。どれくらい時間がかかるだろう。朝起きるのが苦手な私は、床掃除をするほどの時間の余裕は残念ながら持ち合わせていない。
どうしても朝から朝食を犠牲にして床掃除をする気になれず、とりあえず床はそのままにして何事もなかったかのようにいつものルーティンを続けた。
その日は家に帰るのが億劫だったが、帰らないわけにもいかないし、掃除しないわけにもいかない。朝の犠牲よりは夜の犠牲だ。どうせ仕事で疲れているから、あまり変わるまい。
私はよくぶちまける。
気持ちではなく、ものをぶちまける。
私は自分のことをぶちまけ屋と呼んでいる。
今までぶちまけたもので最強クラスのものは、キャンドルホルダーの中で溶けている蝋だ。
火はついていないが、まだ蝋はあたたかく液状で、それを運んでいる途中に何かにつまずき、私は蝋をカーテンや壁・カーペットにそれは見事にぶちまけたのだった。
ぶちまけるものは多岐にわたる。食べ物から蝋、何百本の爪楊枝に至るまで、様々なものをぶちまけてきた。私だって好き好んでぶちまけている訳ではない。できることならぶちまけずに過ごしたい。
しかし本当に謎なのだが、定期的にどうしてもぶちまけてしまうのだ。そして、またやってしまった・・と思う。悲しいことこの上ない。
石川五右衛門ふうに、またつまらんものをぶちまけてしまった。とクールに言えれば良いが、ぶちまけることにメリットなど一つもない。楽しむことは決してできない。
どんなに気をつけていてもぶちまけてしまうのなら、もう受け入れようと思ったこともあった。もちろん慣れているので慌てることはないし、ちゃんと数えればギネス記録に挑戦できるかもしれない。繰り返されるぶちまけ行為を4コマ漫画にして商業化するという手もある(需要があるかは分からんが)
友人で、ぶちまけたら連絡して(画像送って)という猛者が現れた。
もしかしてこのまま続けていたら、世の中のぶちまけを見たいという願望を掘り起こしてしまうかもしれない。ぶちまけの時代もすぐそこなのかも。