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色と私10 「みどりさん」
前回、緑性を隠れ蓑にして
自分の黄色性を抑えることがあった、というような表現をしたけど、
この表現で一旦着地してからも、しばらく考え続けてみたら、
抑えてたのはなにも、黄色性だけではなく、あらゆる色にあてはまり、「抑える」という表現にも、少し違和感を、感じた。
場面によって緑性を優先させることがある、という感じだな。というのが一番しっくりきた。
ここは無難に乗り切りたい、というシーンで緑性を発揮してきた。という感じだ。
たとえば、私学級というクラスがあったとして、(担任は私)
他のクラスと「平和的に」「うまくやる」必要があるときに、
「ここは、みどりさん。あなたの出番よ、頼んだわ」と
「みどりさん」を起用してコミュニケーションを任せる。みたいなかんじ。
前回書いた、くすぶってしまった黄色性というのは、
「おれがおれが!」と[発したい放ちたい]光の性質をもつ「きいろくん」をなだめるのに失敗したからくすぶってしまったかんじ。余裕がなくて「ちょっと黙っててくれる?」的にあしらってしまったんだ。
このときはたまたま「きいろくん」だったけど、
これは「オレは絶対まけないぞ!結果出すぜ!勝負だ!」という「赤のすけ」がそうなる場合もある。
一方で、「クラス?ふふ。こだわるのね〜。私たちもともと一つなんだから。海を見てごらんなさいよ。世界中全部つながってるでしょう?まぁそのうちきっとわかる時が来るわよ」という冷静な「アオ子」もいる。
私学級にはあらゆる色が与えられているのだから、クラスの中も、対話が重要だ。
緑は平和な色といわれる。
それは、青と黄色の間でバランスをとっているから。
相反する性質をもつ光と闇の間でずっと平衡をとっているから。
それが、みどりがみどりであるための宿命的な性質。
(色彩自然学者 高橋水木先生の講義で学んだ私のノートより。以下、同様の囲み部分はノートからの引用)
平和が好き、争いたくない
バランスを取りたい、調和したい
丸くおさめたい、うまくやりたい
ここは無難にいこう、出る杭となって打たれるのは嫌
目立ったらかっこ悪い
そんなシーンで私の中に息づく「みどりさん」を登場させてきた感じがする。
"どうして深緑を引きこもりの子どもたちがよく選ぶのか?"
という問いも、なんとなくわかる気がする。
自分の中の深海・深い森の中にじっと隠れていたい。
自分がもし深緑そのものだったとしたら、周り(他の色たち)はちょっと、やかましすぎてめまいがする感じがした。
「あーもう、私のことはほっといてくれる?」といわんばかりに。
(子供たちとずーっと家にいたコロナ自粛中に、気分が晴れず余裕がなくなって子供たちはうるさい(と感じる)し気が狂いそうになったとき、家の中の狭い部屋にカーテン閉めて薄暗くして閉じこもった時の気分を思い出したw)
みどりは、光と闇を 父と母 とし、
まずこの世に産み落とされた命の色。
だから、
みどりは、命の始まりの色。
そしてまわりを見渡してみると、
どんな命も、みどりから始まっていることに気がつく。
植物はもちろんそうだし。
最も原始的な生物である原核生物も、葉緑体を持つ。
あらゆる自然の生命は、そのはじまりに、緑を宿す。
私たちが何気なく使っている[言葉]にもその本質は息づいているようだ。
たとえば、
[花]は、「咲く」というけれど、
花1つ1つが個性化され、自己実現のイメージすらある。
一方、
緑の[葉]は、「繁る」というが、
葉が伸びて重なり合うほどたくさん増えていく様は、
個性化とは全く逆で、集合的で同質化されていくイメージを伴う。
命の始まり「緑」の時期(まだ何者でもない時期)に
隠れられる秘匿の中で育つのはとても大事なこと。
それは、個性化の前提となっていく。
そう考えると、みどりが「無難な色」と言われる所以も
他に溶け込み、まぎれていくイメージと重なってくるし、
引きこもりの子供たちがよく選ぶ色が深緑だということも
なんとなく気持ちがわかってくる気がする。
外界と内界のバランスを保つのに
私たちは[みどり]を必要としているのだ。
もちろんそのみどりは、
ゲーテ的にいうと「自分の内側」に与えられたみどりだろう。
私学級の「みどりさん」は
個性化[自己実現]を前提にした命の旅をいく上で
自立に向けて歩いていくのに必要な力なのだ。
(以上、引用部は、
色彩自然学者 高橋水木先生の講義で学んだ私のノートより)