
世の中は[物騒]になったのか?
前回の続きです。
週末、両親や弟家族と3ファミリーで旅行に行ってきました。
そこで、親に聞きたかったことを聞いてみました。
Q. どうしてお母さんはわたしに「外国にでも行ってくれば?」と提案してくれたの?
→母A. 学校の授業が受験対策ばかりでつまらないと言っていたし、(提案すれば)行きたがるかと思って。
→父A. え、知らなかった。てっきり絵理が行きたいと言い出したのかと思っていた。
…そういえば、高2の頃に、アメリカ留学から帰ってきた帰国子女の友だちが、ネイティブのALTとペラペラな英語で楽しそうに会話していて、それはそれはカッコよく見えたものでした。
その彼女が、公民館の英会話サークル(?)でうちの学校のALTの先生が教えている曜日があるから来る?と誘ってくれ(←確か)、親に送迎してもらってそこに通っていた時期がありました。
そういうところから、母は、
絵理は英語に興味があるんだな、
寝てばかりいるくらいなら、海外に行って学んできた方が有意義ではないだろうか、と発想したんだろうと思います。
Q. 行くために調べたり決めたり、準備をぜんぶ自力で進めた記憶があるんだけど、それはあってる?お母さんたちが何かアシストしてくれてたんだっけ?
→両親A.何もしなかったね。あってるよ。(とくに出番がなかった)
Q. 行かせることに不安や心配はなかった?
→父A. 絵理なら大丈夫と思ってた。絵理には図々しいところがあるから(笑)心配は全くしていなかったなぁ(笑)
→母A. 昔はこんな今みたいにおかしな時代じゃなかったもの。最近は物騒な事件とかよく聞くし、今の時代だったら行かせてないかもしれないね。
ということでした。
ありがたや、ありがたや。
おかげでかけがえのない経験ができました。
(その後、英語はこれまでのところほとんど出番のない人生ですが、切り拓いていく力は今のわたしに役立っている気がします。)
何はともあれ、危ない目にあうこともなく、
無事に帰ってくることができて本当によかったです。
聞いてみて気づいたこと
一つは、わたしの行動力を両親はよくわかっていて、信頼してくれていた矢先の提案だったのだな。ということ。
(たしかに、両親にそう思わせるようなエピソードを高3までに積み重ねてきている)
そしてもう一つは、
母が「今の時代は世の中が物騒になった」というものの見方をしているということ。
▶︎ほんとに世の中[が]物騒になったのかな?
当時と明らかに変わったのは、情報の量ではないだろうか、とわたしは思うのです。
インターネットが網羅され
世界中のあらゆるできごとが可視化され、
見聞きできる機会が増して、
その中から[物騒だ]と感じる情報に
アンテナを合わせれば、その量の多さに
「こんなにも物騒な世の中になってしまった!」
という印象になるのでは?と思います。
当時の両親は
目の前の[わたし]を判断基準にして、
「大丈夫だ」とか「心配ない」とか「挑戦させてみよう」と感じていたんだな、と思いますが、
今では、
[メディアで知る社会]を判断基準にして
「物騒だ」とか「心配だ」と感じているようです。
(孫の将来のことも案じていました)
(当時だって、
9.11のアメリカ同時多発テロがあった3ヶ月後に海外へ向けて旅立っているんだぜー?母よ!笑)
ミライはいつだって不確実
でも、ミライがどうなるかなんて
決まっていないのは、
今も当時も変わらない真実ではないでしょうか。
旅行から帰った夜に。
おふとんの中で寝る前に次男が絵本を読んでいて、
その内容が、まさにドンピシャなメッセージだと感じずにいられませんでした。




(…絵本ではこのあと、『みらいはそれしかないわけないでしょう?』と、こんなみらいもあるかもしれないし、こんなみらいもあるかもしれない!と大喜利のように楽しいそうぞうが膨らんでいきます。おもしろいからぜひ読んでみてね!)
過去の不安材料からミライを見通しては
不安色のミライしか映らないではないだろうか?
ミライには、予想をはるかに超えるAmazingな
素晴らしいできごとも起こるかもしれないし、
いろんな角度からミライをそうぞうして
ミライを信じるちからが明るいミライを切り拓くのに必要ではないかなぁと思うんです。
だって、人間がまだ空を飛んでいなかった時代は、
それまで飛べたことのない人間が"飛べるわけがないでしょう""そんな馬鹿げたことを"というのが世の中の常識だったかもしれませんが、
「飛んでみたい!もしかしたら飛べるかもしれない!」とワクワクした人たちが、己の感覚を信じて挑戦し続けたからこそ、わたしたちはいま空を飛び、世界を往来することができているわけで。
世の中の[みんな]が思っているだろうというやみくもな感覚や、どこかの誰かが発した[情報]よりも
自分の内側に湧き出る感覚や、
目の前の本人から感じとれるもの
(ワクワク、とかことばにならないような肌感覚)
こそリアルな[実感]として信じられる、自分にとっての真実かなぁって。
わたしは割とその"自分にとっての真実"を大事に生きてるなぁと
あらためて気づきました。
それでいうと、
わたしたちが息子のミライを信じて決めたことは、
息子本人から発せられる気概や、わたし自身の内から湧いてくるワクワクが確かなものだったから、GOでいいのだな、と。
離れて暮らすジジババ(両親)には、
この絵本のおばあちゃんのように
だーいじょうぶよ!とことばで言うかわりに、
「大丈夫な姿」「イキイキした姿」というミライを見せていくことで大丈夫を実感してもらおうと思います。