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グラム・ファイブ・ノックアウト 3-3

 病院に良い思い出がある人の方が圧倒的に少ないと思う。それは病院という場所が基本的に不幸にでもならなければ行かない場所だからだ。
 案の定。
 僕は今、不幸だった。
 不幸なのは僕だけではない。女性記者もそうだった。
 二人そろって並んでいるというのはどうにも面白い。なにせ、この僕と女性記者は決して仲が良い訳でも、そこに密接な関係が築かれている訳でもないからだ。
 残念なことに、このことによって密接な関係になってしまうことは否めない。悲しいかな、できる限り人間関係を削っておきたいという僕の夢はもう叶わないだろう。
 けれど、よくよく考えてみれば。
 殺人鬼の兄がいるせいで。
 人間関係など最初から崩壊していると考えるべきなのかもしれない。
 過去。
 僕が、兄が作ってくれたホットケーキを食べて幸せのまま倒れて病院に運ばれた時、もうそこに兄はいなかった。
 いたのは白衣を着た誰かとエプロン姿の誰かだった。
 何が起きたのかは余り説明されなかったが、そんなことは全く意味を成してはいなかった。隠そうとしていたわけではないだろう。そういう方向性で僕が今の状況を理解する権利を与えられたということに過ぎない。
 そこで、パンケーキに入っていた毒と兄が殺人鬼だったことを知った。
 最後に見た兄の顔は笑顔。
 白い薄いカーテンが自分の頬を撫でるものだからさっさと目を覚ました。
 それからもう数時間が経っていた。
「目、覚めてるくせに、こっち見ねぇのは、なんでな訳。」
 僕は体を窓側から通路側へと動かした。
 そこには、中学生くらいの男の子がいた。僕のことを睨んでは、何度も何度も舌打ちをした、それに飽きるとため息を二回ついた。
「お前らは頭を殴られた。」
「誰にですか。」
「誰かにだ。」
「倒れている所を見つけられて、ここに搬送された。死ななくて良かったな。」
 頭を殴られたことは覚えている。
 僕は、殴ってきた人間にとって見られたくないものを見てしまったということか。
「そういうあなたは誰ですか。」
「そこに女が寝てるだろ。」
「女性記者さんですか。」
「女性記者さんだよ。そいつの上司だ。」
「つまり、編集長さんですか。」
「そうだ。」
「自分の哲学や考えは人に言った方がいいと教えて、それをすすめた男性記者さんと女性記者さんの上司の編集長さんですか。」
「そうだよ。」
「初めまして。」
「悪かったな。」
「何が。」
「巻き込んじまったみてぇだしな。悪かったよ。」
「巻き込んだの、僕です。」
「本当か。」
「はい。」
 襟首を掴まれた上に二回殴られて、ビンタを六発入れられた。
「てめぇ、ふざけんなよ。うちの部下を危険な目に遭わせやがって。てめぇが本当に誘ったんだな。」
「高校生であるとか相手が社会人であるとかそういうことは関係なく、僕の方が誘いました。」
「殺すぞ。」
「すいません。」
「意味が分からねぇよ。」
「ソラトブヒカルネコ。」
 編集長は首を捻った。
「そのソラトブヒカルネコの使いのような方が来て、援交していた女子生徒が殺されると言ったんです。」
「実際、殺されちまったなぁ。しかも、転落死だった。」
「転落死だったんですね。」
「どこからか落ちたみてぇだな。あの場所に。」
 グラウンドは広かった。死体が一つあるだけで、グラウンドという場所は全く違う表情を僕に見せてくる。いつもと同じようにグラウンドを使うことは今後できないだろう。僕の頭の中のグラウンドには転落した女子生徒の死体がいつまでも残り続けることだろう。
 編集長は不憫な話だと言わんばかりの表情を僕に向けた。
「勘違いすんなよ。俺は、見た目は中学生でもそこの女よりも年上だからな。」
「はい。」
「ちょっとばかし未熟児で生まれてからの一年間と四か月、救急治療と救急保護治療を受け続けなければいけなかっただけで、今は普通だ。ただ成長するために必要なホルモンの分泌が早い段階で止まっちまったから、この体でいるだけだ。」
「はい、わかりました。」
「ビビんねぇのか。」
「大丈夫です。」
「そうか。」
「僕の兄のことを、皆さんは知っていますか。」
「皆さんというのは、誰を含めてのことだ。」
「編集長さん、女性記者さん、男性記者さん、です。」
 編集長さんは黙ってしまった。
 兄は殺人鬼で、しかも死体を持ってやって来たらしいことは聞いていたので、どうにもならない。もしかしたら、これ以上進展せず話を聞けないのかもしれない。
「どうするつもりだ。」
「何がですか。」
「兄貴に会ってだ。」
「殺します。」
 編集長さんはまたもビンタを六発繰り出してきた。廊下を歩いていたナースさんが飛び込んできたが、僕と編集長さんは笑顔で対処した。
 もうすぐ雨が降るらしいので、傘がないのでどこかで借りられますかと聞いた。
 売店で買うしかないそうだ。
 編集長さんの後ろで既に目を覚ましていた女性記者さんは、僕の視線に気が付くと布団を深く被ってそのまま動かなくなった。
 ナースさんが出て行ってまた四回ビンタをされてこめかみを殴られた。
「はい、僕は兄を殺します。」
「なんでだ。」
「なんでもです。」
「言え。」
「言えません。」
「言えなければ協力はしない。」
「兄に殺してくれと言われたからです。」
「兄貴がお前にそう言ったのか。」
「はい。」
 ホットケーキを食べたのが最後の日だとすると、それから半年前くらいから兄は様子がおかしかった。
 何かを間違えたと言っていた。
 僕は聞かなかったことにしようとした。
 でも兄がその後から笑顔で僕に接することが多くなってしまったことを皮切りにそれは無視できなくなった。まともに笑顔が見られなくなったことが一番怖かった。
 それから数週間後に、殺してほしい、と頼まれることが多くなった。
 僕は無視した。同じ笑顔でいなした。なんということもないという風に装った。
 結果。
 何も解決などしていないまま、ホットケーキを食べる日になった。
 考えれば。というか今までも考えているのだが。
 あの時よりもはるか前。もっともっと時間は遡って、確か僕が煙草を辞めようと禁煙を初めてした頃に、丁度町に大雨警報が響いた。
 洪水にはならなかった。
 けれど山に近い家は何件か地滑りの影響で、大変なことになったらしい。
 山を覆っていた塀に亀裂が入ったことはあったが、それ自体が大きく崩れたわけでもなく、その亀裂から多くの土砂が流れ出てしまった。誰も、そのところを無視できるわけもなく行政や消防がその周辺の家々の避難を呼びかけた。
 確か、そこにホームレスがいたのだ。
 公園に住んでいたのだ。
 小さな公園だった。
 小さな公園とそのホームレスが埋もれて跡形もなくなるくらいの土砂が。
 その時。
流れ出たのだ。
 公園というものの呼吸音すら聞こえなくなった状態で、二日ほどの夜が過ぎた。誰もそこにはいかないままで、ただただ静かにそこは無視された。
 けれど。
 兄貴だけはそれを無視しなかった。
 兄貴は呼吸を荒くした。
 兄貴は爪で土をひっかいた。
 兄貴は汗をぬぐうのではなくて、雨に洗い流してもらいながらそのまま戦い続けた。
 だれも協力してくれないから、たった一人でその公園の土を微力ながら掻き出そうとした。
 ホームレスは街の人に好かれてはいなかったし、兄貴も決して触れるような話をしたわけでもない。
 むしろ兄貴は公園にいるホームレスを疎ましく思っていたに違いない。過去にはボーイスカウトをやっていて、年下の子供たちを公園に連れていくときにホームレスに絡まれた話を聞いたことがある。兄貴は人生の中で、ホームレスというものに実害を受けていたのだ。
 でも、だからといって見捨てはしなかった。
 そしてホームレスは見つかり病院で助かったそうだ。
 奇跡だったし、兄貴は間違いなくその奇跡を信じていた。
 誰もホームレスを救ったことに関しては褒めようとしなかったけれど、兄貴は満足していた。そして僕もそういう兄貴を持っていることを誇らしく思った。
 あれはきっかけだったのだろうか、それとも、僕が兄貴をより高い存在として見ていくにあたっての一つの出来事でしかなかったのか。
 だからなんにせよ、今でも信じられないけれど、そんな兄の殺してほしいという願いは実行してあげたい。
 僕の中では確かに英雄だ。
 だから悲しいけれど。
 その裏に何があるのかは知らないけれど。
 悲しいけれど、殺してほしいというなら、それくらいしか僕にできることはない。


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