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グラム・ファイブ・ノックアウト 1-4

 あるところに貧しい夫婦がいた。
 二人はいつも、お金欲しさに歩き回った。それしかできないかのようなみすぼらしさは、周りの人間からすれば見ていて吐き気のするものだった。 当然、そこには意味はあった。
 妻は身籠っていた。
 そして。
 出産して。
 なおのこと貧困は濃くなり、子供が血を吐いた。
 吐いた血でさえ啜りたくなるほど貧困はただただ眼前で形を変容させるばかり。
 意味などない。そんな人生を僅かに赤ん坊の脳裏に焼き付けるような現実をどこかに連れ出さなければならない。紙幣と硬貨があまりにも手の届かないところにあるものだから、眠って忘れることすら名案に思える妄想の中にいた。
 だから。
 そう。
 片方は。
 その夫婦の片方は死ぬこととなった。
 生命保険だ。
 片方が死ねば、そのお金が入ってくる。
 子供の幸せのため、そうに決まっている。
 愛する我が子のため。
 子供を産んだ妻が飛び込むことになり、夫にその姿を見届けてもらうように頼んだ。
 電車の音も聞こえないが、車掌らしき人間が周りを気にしだした。ホームに続く階段に人が増え始める。急に走り出し始める人が増える。向こうで踏切の音がする。聞こえてくる。徐々に徐々に響いてくる。
 酷く遠くから音がして、心臓の音をなだめすかした時。
 電車は駅のホームに入り込む瞬間で。
 妻はその瞬間の判断力から、自分の体を一気に倒して近づくと。
 後ろにいた父親の腕を引いて、駅のホームから突き飛ばした。
 最後の最後で。
 妻は死ぬのが怖くて。
 一番近くにいた夫を捧げた。
 だから、あの駅のホームには出る。
 腕の生えた列車が飛び込んできて、電車を待っている人を引きずり込む。
そんな電車が駅のホームへと滑り込んでくる。
 あれは夫の悲しみと恐怖と悔恨が形になって都市伝説になったのではない。なんとか逃げおおせた妻が、あの世で恨んでいるであろう夫のために、誰かが定期的に生贄になって欲しいと願ったことで生まれたものらしい。
 あの列車は夫の形を成しているのではなく、妻の形をしているそうだ。死んでも何の形にもならなかった夫の方は突き飛ばされたことも分からずに、ただただ駅のホームで飛び込むはずだった妻の姿を探しているらしい。
 その夫の霊も、いつの間にか都市伝説として生まれた腕の生えた列車に巻き込まれて消えてなくなったそうだ。
 電車というのは、どこもそういうものだそうだ。
 駅のホームは騒がしいが気に留めるほどではなく、線路の上は静かというには喧しいそうだ。

 駅のホームは騒然としていた。
 電車を待つ人たちはまばらで十人といなかった。しかし、何があったのだろうと集まってきた人たちは二十人以上いた。
 人身事故が起きたそうだ。
 人が死んだそうだ。
「みっ、見えるかい。」
 男性記者は目をこすりながら、車を近くまで寄せようとしていた。
「近づく必要はないので、そこで大丈夫です。」
 僕は線路の中を見ながらそう答える。男性記者は何も答えなかった。
「怖いことだよ。人身事故なんてあんまりリアルで見たくなかったなぁ。一応、新聞記者はやっているんだけど、どうしてもこういうのに弱くてねぇ。もう気持ち悪くなってきたよ。僕のこういう性格、分かるだろう。」
「分かりません。」
「あぁ、そっか。そりゃそうだね。ごめんごめん。でも、本当に気持ち悪いんだよ。」
「吐きますか。」
「吐いていいのかい。」
「ここは吐いていい場所だと思いますか。」
「お、思いません。」
「じゃあ、吐かないでください。」
 車の後ろで女性記者が吐いた。
「あたしは関係ないわ。」
 酒の臭いが車の中を充満する。
 男性記者がつられてハンドルに向かって吐き、その瞬間に僕は車を飛び降りた。酒の匂いを社内に完全に閉じ込めると、運転席の方も開いて、男性記者が滑り落ちた。
「気持ち悪いなぁ、本当にもう。」
「そう思います。」
「あのお姉さんとお酒が合わさった思い出でいいことなんて、一つもないよ。書き終わらなきゃいけない原稿があるのに、深夜に呼び出されて酒を飲まされたり。飲まされなかったと思ったら、顔からかけられたり。死ぬ思いでなんとか介抱したら、レイプだ何だと言さわぎたてられて警察に厄介になったこともあるし。」
「それが都市伝説になったり。」
「そっ、そそ、そうなんだよ。真夜中のヘドロ男とかいう都市伝説のモデルになっちゃって散々だよ。それだって。」
「その女性の記者に吐しゃ物を吐きかけられた、とか。」
「いや、そのお姉さんが飲み屋で仲良くなったおじさんと他の店に移動中におじさんに向かって吐いて、そのおじさんもつられて吐いて、それを被っちゃって。」
「大変ですね、本当に同情します。なので、もうあっちに行ってもいいですか。」
 足早に向かうと、駅の周りは赤色灯で囲われ、事故を捜査する人たちの専門用語が入り混じった会話で包囲されていた。
 線路を挟んだ向こう側の駅のホームでは線路を覗く客と、車掌に詰め寄る客、などなど事故に出くわした人間のリアクションの見本市だった。どれも動くので観察しにくい。止まっていてほしい。
 静止した白い光と忙しない赤い光の間にある線路は、怒り狂って倒れたかのように、重く赤黒い色をしていた。電車はもう少し先に見えたが、一応捜査のために動かしたのだろう。
 轢かれた人間の肉の塊もよく分からなかったが。
 赤く粘つく歯茎のついた歯が、足元のコンクリートに何本か飛び散っていた。
 飛び散った血は闇の中に埋もれて見えないが、砕けた骨に張り付いた肉が痙攣して、その上の皮膚を動かし、長く細い産毛のようなものが揺れているのが見える。人の肉というよりも車に轢かれて道路に散乱した猫の肉に近かった。
 引き裂かれた皮膚から白い脂肪が見え、その後ろ側に赤い筋繊維が見えた。
「は、吐いてもいいかな。」
「僕はさっきあそこでとっさに吐きました。」
 男性記者が走っていって、大量の体液を口から吐き出していた。何人かの捜査員がそちらに向かって懐中電灯を向けたので、あの吐しゃ物は光を反射して白く輝いているところだろうか。
 車の中で男性記者に、教えてもらった電車の都市伝説を思い出す。
 電車が駅のホームに入ってくる。
 その列車からは腕が伸びる。
 人が引きずり込まれる。
 それは死んだ夫への妻からの生贄らしい。
 後のことは知らない。
 駅のホームにいる老婆が叫びだす。
 両手を天に向かって差し出す様にして、目を弾け飛ばす勢いで顔を揺れ動かした。
「電車が引きずりこんだっ、絶対に引きずりこんだっ、嘘じゃないっ、あたしは見てたっっ、今さっき、電車が腕を伸ばして絶対にその子を引きずり込んだっ。可哀そうにっ、本当に可愛そうにっ。」
「おばあさん、どうされましたか。」
「電車から腕がっ、あの子の体を線路へ引きずり込んだっ。」
「おばあさん、どうされましたか。」
「きさらぎ駅行きの電車が来てっ、殺したっ。都市伝説がまた殺したっ。」
「おばあさん、どうされましたか。」
 老婆が白目をむき、白い泡を吐きながら倒れた。
 骨とコンクリートの叩き合う音が響いた。
 周りの客や捜査員が一気に集まりだし、手を伸ばして覗こうとする。
「おばあさん、どうされましたか。」
 列車にひきずり込まれた死体。
 死体は。
 そう。
 シートか何かを掛けられていて、気が付くと運ばれていた。
 顔の鼻のあたりがこそげとられて皮膚はめくれあがって、所々が摩擦のせいで黒く焦げていた。
「実はっ、前にっ、僕の友達もね。」
 いつのまにか男性記者は戻ってきていた。
「引きずり込まれたんですか。」
「間違いなくね。」
「どうして。そう言えるんですか。」
「僕の前で起きたよ。一瞬のことだった。そいつは駅の小さな売店で万引きをした帰りに線路側に背を向けて笑って、その後だった。電車が入ってきた瞬間に体を線路側に引きずり込まれた。誰も押してない。」
 男は笑顔のままシュレッダーに飲み込まれる紙のように消えていったのだろう。表情など変わる瞬間すらない。
 そうやって固定された表情をそのまま折りたたんで殺したのだ。
 その列車は。
「本当ですか。」
「そこにいたのは僕だからね。僕が押していなければ絶対に押していない。」
「本当だと信じます。」
「今まではそのことを記事にするのも躊躇ってたんだ。友達のこともあるし、その友達の遺族とか、それ以外の友人や恋人のこともあるし。記事を書く理由だって、供養する意味も込めてなんて訳の分からない理屈をこねくり回しても無理なものは無理だよ。」
「その気持ちはわかります。大切な気持ちだと思います。」
「だからこそ、今、話したんだ。君ならこの話を記事にできると思う。」
「はい、できます。やってみます。書いて記事にします。」
 今日、あったことも書いてみようと思った。
「眠いから早く車を出して頂戴。」
 車の窓がいつの間にか開いていて、そこから女性記者の腕が伸びている。
 何故か、手で狐を表現していた。
「じゃあ、君の家まで車で送るよ。さぁ、乗って乗って。」

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