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グラム・ファイブ・ノックアウト 1-5

 新聞記者をやっているから、こういうことを考えるという訳でもないんだけれどね。
 君は自分に才能がないってことを自覚したのは、いつのことだったか覚えているかい。
 まぁ。高校生の君にそんな質問をするなんてナンセンスだったかな。
 いや、今の発言こそナンセンスか。
 僕は別に覚えているというほどではないんだけれど、なんとなく分かってくるものだと思うんだ。そういうものって、いつのまにか自分の立ち位置とか、そういうものが他の人たちによって決められていくだろう。
 悲しいというか、そういう思いもなく諦めというのに近いよね。
 どうして、そういう人生になってしまったんだろう。そう思うよりもはるかに早くそういうことってやってくるものじゃないかな。
 君もいつかそういう日が来るよ。
 ああいうことをしてみたいなぁ、から、ああいうことをできる人を見てみたいなぁ、になって最終的に漫画とかアニメとかで我慢をするようになる。そしてアニメとか漫画によって我慢することすら忘れて、単純に漫画やアニメが好きになる。
 足りない才能を補うための努力を使って、アニメを探すようになる。
 現実逃避さ。
 芸術の本質は現実逃避から始まるって言うけどまさにそうだし、それ以外はないよ。
 それでも生きていけるんだ。
 生きていけてしまうんだから、自分の才能のことなんて忘れてしまえばいいのに、それでもほんの少しだけ覚えてる。
 自分には才能なんてなかったって。
 才能のない生き方しかこれ以降はできないんだって。
 でも、それでも今は楽しいって、それなりの言い訳とそれなりの現実の中にある幸せを数えるんだ。自分に何の才能がないかを数えたその指で、今度は必死に身の回りの幸せを数えだすんだ。
 ねぇ、どう思う。
 君がそんな人間を横から見てごらんよ。
 無様だよ、そういうのは。
 僕はそういう才能とかそういうものからは完全に離れて生きることにしたよ。
 一生懸命振ったバットにボールが当たったのに、それでも、フォームがおかしいって周りにバカにされる才能のなさよりも。
 何とか誤魔化し誤魔化し生きていこうって自分の心の中に決めたのに、その誤魔化して生きる方法すら下手糞だと周りにバカにされる才能のなさよりも。
 器用さに憧れながら、自分の唯一の長所が不器用であるということに気づき、どこにも行けなくなってしまった才能のなさよりも。
 三流の天才より、一流の凡人。
 そういう記者だよ。
 努力でどうにかするのはもうやめるよ。
 圧倒的な凡人としての能力で戦う。

 男性記者はそのようなことを喋って、僕の自宅に車を止めた。
「そういうのを初対面の人間に話すのが流行っているんですか。」
「流行ってはいないけれど、口に出すのは、うちの編集長の決めたことなんだ。」
「そうやって、話すことで何か人生は変わりましたか。」
「大きく変わらないよ。ただ、歩いている道が強固になっていくのを感じられるかな。」
「僕にはそういうものはありません。」
「ないと思っているだけさ。」
「探そうとも思えないです。」
「探すようなものではなく、いつの間にか気が付くものなんじゃないかな哲学っていうのは。」
「そういうのは、僕は嫌いです。」
「何故、嫌いなんだい。」
「おやすみなさい。」
 車は直ぐに闇の中に消えてしまった。
 おやすみなさい、も、さようなら、もなかった。
 後ろで寝ている女性記者の顔も見なかった。
 今のところ、あの二人の記者との繋がりは携帯電話に入っている連絡先以外はない。このまま断ち切ってしまおうかと思ったけれどやめておいた。
 また、ご飯を奢ってくれるかもしれない。
 現実感のある関係性だ。
 なんとなく繋がれる関係性は低い位置にある。価値がお粗末だ。僕は貧乏だし毎日ご飯を食べていくのもやっとだ。可愛がってくれる相手にはある程度いい顔をして、少しでも近づけるよう努力する。
 おなかを膨らませてくれる相手ならそれでいい。
「こんばんは。」
 どこからか声が聞こえる。
 夜空には大きな満月があった。異常な大きさでそのまま押し潰されてしまうと思えた。
 満月には黒い線が一本だけ入っていた。
 電柱かと電柱を繋ぐ電線である。
 その上に猫が座っていた。
 黄色い満月に黒い猫の影が重なった。
「こんばんは。」
「こんばんは。」
「月が綺麗ですね。」
「はい。何の御用ですか。」
「猫が人間に何か用があると思いますか。」
「ないと思います。」
「そういうことです。」
 満月と猫を見つめながら僕は動けなかった。
「貴方は、猫ですか。」
「はい、猫です。」
「人の言葉をしゃべっていると思うんですが。」
「一所懸命覚えたんですよ。大変でした。褒めてほしいですねぇ。」
「他の人に頼んでください。」
「君のお兄さん、どこにいるか知っているかい。」
 僕は自分の兄のことを不意に思い出す。
 もう会っていない。
 何年会っていないのかすら分からない。
 その程度の付き合いしかないのだ。
 かろうじて血が繋がっているようなもの。
「あの時は大変でしたねぇ。」
 猫は自分の足を舐めた。
「兄は生きていますか。」
「生きていますね。」
「どこにいますか。」
「こちらも分からないから、弟である君に尋ねているんですがねぇ。」
「教えてください。」
「何故でしょうかねぇ。」
「殺したい。」
 殺したい。
 自分でそう言っておきながら、俗っぽい言葉によって自分の思いが汚される方が遥かに怖くなってくる。そういうものの繰り返しで自分の中の兄に対する思いが摩耗するほうが怖い。
 ありふれた感覚でものごとを語った方が、兄に対して過剰な注意や興味を抱かないとは思う。
 でも兄は違う。
 兄だけは別格だ。
「あなたは、兄を知っているということですか。」
「猫ですからねぇ。」
「兄を早く保護する必要があると思います。」
「お兄さんは元気ですよ。」
「元気であるかどうかはこちらで判断します。」
「でも。」
「はい、僕は兄を殺そうと思います。」
 最後に、僕と兄はホットケーキを食べた。甘くてやわらかくてとてもおいしかった。本当に少しだけ僕の嫌いなブルーベリーを混ぜていて、少しでも食べた方がいいと気を使ってくれた。
 そうしてそれがこれからも続くものだと思っていたら、その瞬間に体が揺れ。
 起き上がるのに二日もかかった。
 そのまま色々と大事な時間を消費していた。体中についた傷跡も僅かに残る痛みも、開いた目に入ってくる光から生まれる苦痛も、酷くすべてが億劫に感じられた。
「兄は強い人です。」
「かなり色々なことができる人だからねぇ、彼は。」
「兄は喧嘩も勉強も全てできました。すべてにおいて大人顔負けでした。」
「彼は強いからね。」
 兄からは今でも仕送りがある。当然、どこからお金が入ってきているのかは分からないし、調べることもできない。けれど間違いなく兄だ。
 兄は僕の生活を未だに支えている。
僕は支えてもらわなければ満足に高校にも通えない。
「あの二人の記者は、君のお兄さんのことを知っている。」
 男性記者と女性記者と、何故か嘔吐していた時の音がよみがえる。酷く遠くに感じられたがそれだけのことだった。
「だから近づいてきたんですか。」
「君のお兄さんは、最後はただの連続殺人鬼だったからねぇ。」
 記憶の中の兄の顔はそんな事実とは全く無縁だった。どうしても同じところを歩いていくのが面倒だったから自分と離れたのだと思ったものだ。そういう距離の取り方も必要だろう。
 事実。
 兄は殺人鬼だった。
 十八人を殺したそうだ。
 未だ捕まっておらず。
 殺し方は、いつも首の骨を折ること。
 その繰り返しと、その首に堂々と指紋を残すことが警察の正義に余計に熱を帯びさせた。狙っていたのかもしれない。僕はよく知らないが兄はそういうことを繰り返していた。
 らしい。
 僕は兄でも警察でもないので正確なことは分からない。
「あのお二人は君の兄のことを知りたいんだろうねぇ。」
「それはなんとなく。」
「分かっていたと。」
「はい。」
「でも、知ろうとは思えませんでした。」
「何故。」
 答えられない。
 兄は、十九人目を殺し損ねて、そのまま姿を消した。
 もちろん世間から、そして社会からだ。
 最初の頃はナイフを使わないジャックザリッーパーだとか、品のない呼ばれ方をした。しかし、その後に立て続けに政治家が女子高生に痴漢をしたという騒ぎや、アイドルグループの大麻使用の報道、有名司会者が生放送中に急死するなど起きてしまうと、いつの間にか話題性は失われた。
 兄は消えた。
 そのまま、静かに十八体の死体と一人の重傷者を生み出し現れることもない。
「今ここであなたが兄について喋ってくれればありがたい限りです。」
「それは、有難いだけで得策ではないし、こちらの意思を無視しているので同意しかねるねぇ。」
「貴方が本気で同意するとは思っていません。」
「だろうねぇ。賢いねぇ。」
「僕は兄に会いたいです。」
「こちらとしても会いたい。」
「あなたは何者ですか。」
「こちらの名前は。」
 その瞬間、猫が月の中に溶け込み、そのまま電線の上から姿を消した。
 もうそこには何もいない。
 ただ声はする。
「ソラトブヒカルネコ。」


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