犬
あの犬が家に入り込むようになってからひどく気分が悪い。
犬が来るのは決まって「真夜中」だった。
どこからともなくやってきて、寝ている私の上を走り回り、よだれを垂らしている。白く、丸く、息づかいが荒く、生々しい匂いのする犬だった。
いつも窓を閉めて眠ったが、その白い犬は毎晩同じように私の部屋にやってきて、追いかけようと立ち上がるとカーテンの外に逃げていった。
随分と逃げ足の速い犬で、一瞬で風のように去っていく。
いつの間にか窓が開いていたらしく、入り込んできた風でカーテンが揺れているが、窓を開けて眠った覚えはなかった。すぐに追いかけたにも関わらず、窓の外には誰もいない。夜中に入り込む風は微かに湿った草の匂いがした。
朝、目が覚めると窓は閉まっていたが、これが夢なのか現実なのか定かではなかった。夢というにはあまりにも現実的だったし、実際パジャマは犬のよだれで汚れている。それに、その犬の独特の匂いと体温、重量感は本物だった。
もしも監視カメラをつければ、あの犬がどこから来るのか、本物なのかがすぐにわかる。しかし、あの犬の妙な体温がそうすることを躊躇わせた。
それがもっとも簡単な方法であるはずが、私は迷っていた。
私の仕事は隣町にある白く大きな施設の警備で、カメラについては詳しかった。どこに設置すべきかすぐに思いついた。それなのに、私は監視カメラを取り付ける気になれずにいる。
もしもカメラに何も映っていなければ、あの妙な体感をどのように説明したら良いのだろう。
あの犬が空想か、それとも現実なのか、私は考え続け、ひとまずあの白い犬が近所で飼われていないかを確かめることにした。
翌日、私はさっそく犬を探しに出かけた。怪しまれないように慎重に、ただの散歩である事を装った。私が犬を探しているなどという事を誰にも気づかれないように。
もしかすると、窓を閉め忘れただけかもしれない。
何故だか、そうであって欲しいとさえ思っていた。
近所には犬を飼っている住人は少ないが、たしか三軒隣の老人が黒く大きなドーベルマンを飼っていた。それに、裏道を五分ほど行くと若い夫婦が小型で足の短い犬を飼っている家があり、私を嫌ってよく吠えたが、この記憶が正しければ白くも丸くもなかったはずだ。
一時間ほど歩き続けたが、白い犬を飼っている家は見当たらなかった。少なくとも、あの白く丸いものの気配はどこにもなかった。
やはり、私は窓を閉め忘れただけかもしれないが、まだ疑惑は晴れなかった。
犬のよだれでパジャマが汚れるので、毎朝洗っていたが、雨の日の予備として同じものをもう一着注文することにした。
ついでにカメラを注文しようか迷ったが、結局まだ購入していない。
あの犬が私の腹に乗った時の重さと匂いが一日中まとわりついて気分が悪かった。犬は産まれたばかりの子どものような匂いがする。次第に私は仕事中にも関わらず、その犬の事ばかり考えるようになっていた。
私の仕事は主に施設内の警備だが、まったく変なことが頭の片隅にあると余計に気が張った。ここに居ない犬に動揺するなど、あってはならない事なのだ。
施設に到着し廊下を歩く間、壁をすり抜け、犬が飛び出してくる気がしてならなかった。この建物のエントランスは外観と同じくらい白く、光が入る時間帯は反射して更に白く見える。犬が飛び出してくれば目立つ為、間違いなく見つけられると思い込んでいた。犬は白かったが、この建物の頑丈な白さに比べれば薄汚れているように思えたし、あの妙な匂いに気が付かないはずがない。
どういうわけか、この建物全体からあの犬の気配が漂っていた。それはあり得ないことだった。
もしもどこか一箇所であれば、そこを封鎖したのに。冷静で潔白なこの建物に侵入するかのように、あの犬の生々しさが覆い被さってくるようだった。近所にはなかった妙な匂いがここにはあった。
私は建物内を見回したが、異質なものは何もなかった。何故、この建物全体からあの犬の、緊迫するような、全てが混ざり込んだ、熱く異質な匂いがするのか分からなかった。私の上で飛び跳ね、今にも飛びかかろうとよだれを垂らしていた時の、腹の底から湧き上がってくる妙なものが近づいていた。死んだように静かな建物の裏側で、生々しい生き物の気配がした。
受付の女性の声がして、はっとした。エントランスには、順番を待つ人々で椅子が埋まっている。
私は二階に続く階段を登った。
順番を待つ数人が長椅子から窓口に向かっていた。
この建物はよく見ると、どこもかしこも白いせいか、自分が酷くくすんでいると思える時があった。数か所ある窓から入り込む光に照らされている間、私は建物の白さを忘れることが出来た。まるで自分にだけ光が差し込んでくるように思えたが、それもすぐに消えた。窓口に並ぶ人達の影が、大きく連なっている。避難階段前からエントランスを見ると、小さな黒い点が列を作り白い壁に吸い込まれていくようだった。
私は裏口に向かい、ひんやりとした廊下から地下に向かう階段を降りた。
白い壁が迫るようにどんどん細くなっていく。ここは薄暗く、建物内の白さが段々と歪んでいった。
犬が入り込める隙間はここにはなく、不審なものはすぐに見つかるはずだったが、まだ微かに犬の気配が消えなかった。
あの柔らかいものが私に迫ってくるのは時間の問題だった。
こんなに狭い道にあの犬が現れれば、私は間違いなくあの犬を捕まえることが出来る。だが、管理室の扉の前に着いてもまだ犬は姿を現さなかった。
この白く大きな施設に居る間、私は誰よりも冷静であろうと心がけていた。
管理室に入れば、モニターの動きをひとつも見逃してはならないと決めていたし、見回りも徹底した。部下たちにも同じように教え、私たちは連携し、殆ど同じ行動をとった。
地下の無機質な壁はひんやりと冷たく、集中するとあの犬の匂いは次第に消えていったが、少しでもまたあの匂いが漂ってくると、いつの間にか妙な鼓動と体温が蘇ってきた。まるで空気にしみ込んでいるかのように、犬は侵入してきた。しかし、そんなはずはない。ここは厳重に管理されている部屋なのだ。
完璧な仕事を終え帰宅する途中、私は一瞬だけ犬の事を忘れていた。
それはとても晴れやかで、久々にのんびりしようと考えていた。気分がいいので近くのスーパーでピザとサラダとビールを買って帰る事にした。食事の時間は腹が満たされる事だけ心配していれば良かったし、煩わしい事は何もなかった。家に着いたのはいつもより30分遅いが、たまにはそういう日があってもいいと思うことにした。車庫に車を停めた時、あの白い犬がいるのが見えた。
犬は家の玄関の前で丸くなり、寝そべっている。酷く、くたびれているように見えた。しなしなとしてハリがなく、横たわっている。
薄暗い中でも、あの犬だというのが分かった。
「やはり、あれは現実だった。」そう思った途端に胸が痛んだ。それで、ほんの一瞬目を逸らしたが、そのうちにまた犬は居なくなってしまった。
それから毎晩、私は家中の窓の鍵が閉まっている事を確認し、カーテンを閉めるようになった。万が一、何かの視線を感じたら用心深くライトを当て、誰もいない事を何度も確かめていた。
静かな暗闇は、私の脳内を映し出すようにどの方角からもあの犬が走ってくるような錯覚を呼び起こす。この土地はやけに広いせいで、人影は小さな黒い点に見えた。施設の建物に密集する黒い点のように、壁に吸い込まれていく事は無かったが、小さな黒い点はあちこちに立つ四角いものの中に散らばっていった。
誰もいない平坦な土地には、不穏な予感だけが漂っている。
あの白い犬の妄想は、不穏な気配の上の波のように迫ってきた。
この辺りでは、夜中に庭に出てくる住人はほとんどいない。もちろん、犬もいないはずだった。それは幻想だと、もう少しで確信するはずだった。
白い犬を飼っている家は、近所にはなかったはずだが、あの犬は家の前に居た。私の家の前で白く、丸いものが蹲っていた。
私は混乱していたが、自分に言い聞かせた。「これは私の恐怖や欲望を表す幻想だ。そうに違いない。」
私があの犬を捕まえることを毎日考えていたせいで、どんなものも白い犬に見えるのだ。
もしも、あの白い毛並みの艶やかな犬がうろついていたら今度こそ捕獲しようと考えていた。あの施設の白さに比べれば、薄汚く見える犬を捕まえる事は簡単なはずだ。そうすれば、私の生活はもう安泰だった。
今度こそ、間違いなく安心できる。
あの犬を捕まえれば、何処から来たのか、何故真夜中やってきて、私の身体の上で飛び跳ね、尻尾を振り、窓から出ていくのかが分かるはずだ。
私は何度も犬を掴む妄想をした。艶やかな毛並みの、あたたかい生き物の体温を思い出していた。
これほど犬に警戒しながらも、私は犬が嫌いなわけではなかったし、怖いわけでもなかった。ただ、あの白いものが怖かった。
固まる事のない白いものが迫ってくる事に、胸が張り裂けそうだった。
別に捕まえてどうするなどとは考えていなかったが、捕まえて飼う事が出来るならそれでも良かったし、どこかに飼い主が居るのなら探すことも出来た。
間違っても殺しはしない。
私は犬に嫌われるが、犬は好きだった。たぶん、ずっとずっと昔の私はそうだった。これでも昔は犬を飼っていた。白く、小さな犬だったと思う。丸く、穏やかな。
あまりにも幼かったので、もう飼っていた犬の記憶はほとんどなかった。だから、犬が私を嫌いだったかどうか覚えていない。名前すら思い出せない。
彼と私が一緒に過ごしたのは、とても短い時間だった。私が産まれた後すぐに彼は死んだと思う。私が産まれたせいで彼が死んだと言えるほど、短い時間だった。
ほんの一瞬、あの白く丸いものを掴んでいた記憶がある。私とあの犬は、まるで臍の緒の繋がった兄弟のようだった。
それほど近くで一緒に過ごしていたし、確かに私は犬を飼っていたはずだ。
でも、本当の事を言うと、もう犬の事は思い出したくなかった。妙な体温が蘇ってくることに耐えられないのだ。懐かしい、何かざわざわとする。白く、丸いもの。
そういうものをずっと忘れようとしていた。私の心を乱すものは私の仕事にふさわしくなかった。ただそれだけで、私はあの犬の事を忘れたままでいたかった。
私には毎朝決まった日課があり、管理し守っている。それが私の仕事だったし、ふさわしいと思っていた。
万が一、変な行動をする存在がいたら、いち早く気付く為に、私はここをはみ出してはならなかった。白く固い、あの施設のように冷静でありたかった。そうしなければ、少しでも判断が遅れれば、私は何かを失うとさえ思っていた。
そうやって失ってしまったあらゆることを思い出していた。
私を私として成立させるものが、あの白く丸いものを見ると崩れていくのが分かった。思い出すたびに、妙な体温が腹から上がってくる。生々しい匂いが鼻に近づいてきて、よだれでパジャマの襟が濡れた時の感触が蘇った。
毎朝、私のパジャマの襟が濡れているのは、あの犬が私の顔にあまりにも近づいてくるせいだ。
もう、犬の事は、白く丸いあの犬の事は考えたくなかったのに、犬は構わずやってきた。
何も知らず、何も気にせず、ただ私の腹の上で飛び跳ね、尻尾を振る。柔らかい感触と生々しい体温を残して、去っていく。
突如現れるあの犬を野放しにすれば、私の精神がどんどん侵食されていくのが分かっていたが、まだ私は躊躇っていた。まだ、本当に捕まえようとはしていなかった。
あの犬がやってきてからというもの、どういうわけかずっと心がざわついている。安心して腹を空かせることが出来なかった。彼は私が突き放していた白く丸いあの妙な体温と似ている。昔飼っていた、あの懐かしいものと。何故、昔飼っていたあの犬が私の所からいなくなってしまったのか思い出せなかった。
私はそれを失った衝撃を思い出せないせいで、まだ柔らかい生き物を掴むことを迷っている。
それからもずっと、犬は私の所にやってきた。
寝ている私の上に飛び乗り、よだれを垂らして生々しい匂いを残していく。
私はそのたび、家の鍵が閉まっている事を確認し、カメラの取り付けを悩んでいた。
毎晩、あの犬を捕まえることを考えながら、庭のあちこちから走ってくるシミュレーションをする。
犬はまたどこからやって来るかわからない。あの体温が侵入してくるのを常に警戒していたはずが、ある日、おかしなことが起こった。
その晩、犬は私の所にやって来なかった。
そのたった一日、あの忌々しい犬が来なかったことで私の心は穴が空いたようだった。すっかり、私は変わっていた。
胸に手を当てると、そのまますっぽりと落ちてしまいそうでならなかった。どこかに空いた、私の足りないもの。いや、まるで私が私自身に弾き飛ばされたかのような痛みだった。あの犬がいないことで、何故私はこんな気持ちになったのだろう。
あの犬は私では無いはずなのに。
私はあんなにも生々しくないはずなのに。
胸の穴が大きくなり、虚しい。ついに私はその暗闇を目の当たりにした。
私が変わってしまった事実を受け入れる他なかった。
気が付くと、あの犬が来るのを待っていた。
私は動揺していた。あれほど犬を警戒していたにも関わらず、彼に来て欲しいと何度も犬を捕まえるシミュレーションをし、彼が私の腹の上で遊び、その喜びを撫でるのを想像していた。そのたびに、何かあたたかいものが蘇ってきた。
知らない熱が腹の底を撫でていった。
犬の為に家をつくり、食べ物を買い、いつ来てもいいように準備をした。
私はあの犬に触れてみたかった。この胸の穴を確認するずっと前から。
次の日もまだ犬は現れなかった。私は窓の鍵を閉めることをやめて、広い庭を駆けまわる犬を想像した。
私の家から見える庭が、どんどんあの白いもので埋め尽くされようとしていた。
あらゆる方向から、沢山の犬の表情が飛び出してきた。あの白い犬がするであろうことを推測し、データを整理した。
でも、まだ、あの犬はやってこなかった。
私は窓もドアも開け放ち、ずっと待っていた。
数週間が過ぎたある日の真夜中、私の腹の上に妙なものが乗っていた。
今にも溶けてしまいそうなほど柔らかく、白く、丸く、あたたかい小さな犬が寝ていた。
犬は私の手に収まるほど小さく、呼吸をするたび手に振動が伝わった。上下に静かに揺れている。
私はその犬を撫で、深く息を吸った。
犬は私の胸に空いた大きな穴の下であたたかい寝息を立てている。
私の臍と彼が繋がる光の線が湧き出てくるのを見ていた。
犬は起きて走りまわる事はなかった。私の身体の上でよだれを垂らすこともない。彼は、小鳥のように軽く、あたたかかった。
私たちの繋がりを確かめ、それが本物であるのを感じると、犬はどんどん小さくなっていった。白い犬は私の腹に溶けていくように沈んでいく。
不思議と、虚しさを感じる事はなかった。今度こそ、犬は消えてしまうかもしれない。それでも、どういうわけか喪失感はなかった。
犬は更に小さくなっていった。もう、親指程の大きさしか見えない。
微かに、花のように甘く安らぐ香りが鼻をかすめた。深い森の草木が脳裏に浮かんでいる。犬はもう消えてしまったかもしれない。
私は目を閉じたまま、窓から入る風を感じていた。少し、肌寒い季節になった。もう、窓を開けたまま眠るのは難しそうだ。
私はまだ、目を閉じて身体を抜けていく風を感じている。そうして、腹に溶けていった白い犬についていつまでも考えていた。