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列車の下のたくさんの水槽の水

この劇場に訪れた時、遠い昔に読んだ物語の気配を感じた。
懐かしい畳の匂いと、古い着物の匂いが鼻をかすめる。それは、長い間使われていなかったクローゼットの奥の隙間のよう。
劇場の小さなステージの上は、龍の背中に乗る赤子の面影がある。
古い列車のレプリカが蛍光灯のように頭上に並んでいるが、その真下には、水の入った沢山の水槽があった。何のために置かれた水なのか、見当がつかない。おかしな劇を見ようと、見世物小屋に訪れる得体の知れない形の観客たちが、点々と席を埋めていく。

この劇場は一体誰の為に創られた世界なのだろう。
見慣れない観客たちにはまだ、ステージの水槽は見えていなかった。
彼らは食事の前であるかのように席につき、手元のグラスの水を見ている。
私は遠くで、水の入った沢山の長方形の水槽を眺めている。
水槽には何も飼われていないはずが、何かが動いている。やたらと透明な水が静かに心を覆った。
動かない水が、天井のレプリカから漏れてくる光で妙な予感を醸し出していた。何も始まらず、しかし、龍の背中にいるような心地よさを感じていた。
水が動き出すのを待って、私は動かない古い列車に思いを馳せる。
列車を見ていたはずが、いつの間にかあのステージの中心で、私は列車と水槽の間を移動している。

何かが始まろうとしていた。
客席の椅子に座り、観客に紛れていたこの劇場のオーナーが立ち上がり「さあ、どの部屋にしますか」と言った。
オーナーは赤子のように小さく丸い。懐かしい面影がある。
私は、彼がいつか龍の背中に乗っていたのを知っていたが、今では、劇場の中でいつまでも始まることのない演劇を見ていた事を知った。
彼は海に沈む直前の夕日のように赤かった。その顔は輪郭を失いかけているようだ。
夕焼けの記憶が蘇った瞬間、水槽の中の水が揺れたのに気が付いた。
滝のような水が流れ出す音を聞きながら、目の前の赤子を列車に乗せるように持ち上げる。まるで私自身が動き出すのを見ているようだ。
何も飼われていない水槽の中の水は、思い出せなかった沢山の感情だった。動き出さない列車のように止まったままの水の方向を、今度は自分自身で選ぼうとしていた。

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