1月1日〜1月5日
家族と某ナイトスクープの放送作家について話す機会があった。年に数回しか会わない両親といきなり意見を「ぶつける」ことにならないよう、柔らかく言葉と話題を選びながら言葉を交わす。父親は同志社出身かつ一時期までA新聞を愛読していたものの公務員であるがゆえA新聞がその公的機関の不正を毎日のように告発する記事を書いていることに疲れN新聞に読み替えさらに「俺はA新聞は嫌いだ」と言うようになった人で、その人がH放送作家の小説を「今年読んだ小説はこの数冊やねん」のうちの1つとして挙げてきた。心に隠しきれないざわつきを感じながらも、H放送作家自身を非難するような語り口にならないよう、例えばレイシストについて会話するなど話をほぐしながらH放送作家について聞いてみた。
「彼はA放送局のディレクターをしたり様々な経験をしているが職を転々としている。それは自分自身がやりたいことを貫いているから。上から押し付けられることにモチベーションが上がらないんだろう。そうやって自らの信念に基づいて、環境を頻繁に変えたとしても、やり続ける人は信用できる。人として、ね。」と父親は言う。H放送作家が何を発言しているかの話ではなく、人となりを客観的にみてどうなのかについて評価をした。私もその誠実さにこたえる形で、彼が発言していることそのもの、彼が関わっているコンテンツそのもの、差別につながることレイシストというものについてを、H放送作家と分けて、評価しあった。この部分については概ね両親と私は同じ意見だった。
トピックを分けながら価値観を共有し、おそるおそる丁寧にすりあわせる会話を家族で行えることに安心した。誰も感情的にならず。家族だからこそ感情的になりそうだから避けてしまう話題も、今回したような方法でゆっくりと会話できるんだという体験ができたのがこの年末年始でいちばん印象に残っていることだった。
さてこれが家族以外でできる会話法なのかどうかはわからないが、家族ほど難しい間柄で機能する方法なのだから他でも使えると信じたい。
(ちなみに小説に対する両親の評価はイマイチだったのが面白かった。「話が点々としすぎてイマイチ掴めなかったなあ」)