最期のその時⑨~亡き後も~
結局、父は自宅に戻り三日目の朝に息を引き取った。
⑧で書いたように、幸せな最期を迎えた父。
その後は、葬儀の手配や各種いろいろな手続き。その辺は、姉たちが頑張ってやってくれた。わたしは、文字通りの寝ずの番で体が疲弊していた。しかし、やることはまだまだある。
訪問看護の方が来て、先生が死亡確認して下さり、父のエンゼルケアをした。一緒にしますか?と聞かれ、わたしは一緒に行った。
甥っ子・姪っ子にからだを拭くからお湯を汲んできてとたのむとぬるま湯できた。いやいや、もうすこし熱くせんと寒いよと汲みなおしに行かせる。
再度持ってきてくれたお湯もまだぬるかった。
「ごめんねー絶対冷たいよね。寒いよね。」と言いながらおゆをかけ頭を洗い、素早くからだを拭いていく。浮腫でパンパンの体。管が鬱陶しいとよく言っていたが、その管も全部外して貰えた。よかったね。そうやって話しかけた。
ここまでは、順調。最後、死化粧。
姉2は美容師であり、メイクなども仕事で行っている。それで、よかったら化粧してもいいですか?と聞いて、姉2がメイクを施すことに。
問題はここから。
父は前述している通り、日焼けもしているし黄疸もひどく顔色が悪い。黒黄色いというか…。普通にファンデーションを塗っても白く浮いてしまう。
下地を使うことにした。この顔色を良く見せるためには・・・と姉2は考え、自分のメイク道具を探すが理想の色味がない。
あ!あった!!と見つけた下地。父の顔に塗りながら、姉2が笑っている。
どうした?というと
「これ、パール入ってるからキラキラしてる(笑)」と見ると、父の顔がキラキラしていた。思わずわたしも吹き出す!!いや、これはさすがにないやろ!!!
二人で「俺で遊ぶな」という父の声が聞こえるよねと話した。こんなキラキラしたご遺体も見たことないよ…。死んでも尚、わたし達を笑わせてくれる父。父からしたら、勝手に笑っているだけだろうと言っているだろうが、あながち嫌がってはいないはず。
その後、葬儀屋の方がみえ、専門の方がメイク直しをして下さった。姉2は興味津々で、あ~なるほど、その色を使うといいんですねなどと話しながら参加させてくださった。
最後に、綿を詰めたりという作業をするときには、わたし達は部屋を出た。家族としてあまり見たい工程ではない。
終わりましたと声をかけられ、父を見に行く。
驚いた!!
父が満面の笑みだったからだ。看取った時も本当にやすらかな顔をしていた。この専門士の方々が上手にケアをして下さり、父の顔が更に笑顔になったのだ。不謹慎かもしれないけど、この写真も撮っておけばよかったねと後悔した。そのくらい笑顔だった。
最期に間に合わなかった親族や友人など、次々に訃報を聞いて父に会いに来てくれる。その度に、「めちゃくちゃ笑ってるよね?!」と言う。
夜は仮通夜を自宅で行った。父を横にみんなでお酒をのんで父を偲び、思い出を話した。終始、父がご機嫌だったことはいうまでもない。
この表情からわかるように、父の最期は幸せなものだったと思う。もちろん、心残りはたくさんあるはずだ。
入院した時も、仕事のことを心配していたし、自分は死なない!と思っている反面不安もあったのだろう。もしもの時は、の話もしていた。
そして、悩んだ顔をして
「お前たちにお金を残してやれんやったことがね~」
と呟いた。
母はさておき、わたし達はいい大人だ。いつまでも、親にお金の心配をさせる娘たちでごめんとこちらが申し訳なく思った。
ひとしきり色々悩んだ後、必ず父は
「あ~ぁ、もうなるごっさ」(なるようにしかならないの意味)と言う。
自分の力ではどうにもならないことなど起きた時、父はこう言うのだ。
わたしも父に悲しい顔を見せないようにしていたが、おそらく父もそうだったと思う。時々こっそり泣いているような時があった。
そんな時は「売店行ってくるね~」と部屋を出てしばらく戻らないようにした。
生と死の間で、父の希望と意志の強さを感じ、わたし達にお別れするまでの猶予を2週間もくれた。「今夜がヤマです」から2週間。涙あり、笑いあり。死に向き合う家族として関わることができて良かった。
わたしは、介護福祉士としてやってきていたのは、両親を看取るためだったのだと今は思っている。そして、今は退職したが、これから命と向き合う仕事をしていく生徒たちにリアルな家族の気持ち、介護士としての気持ち、体験したことを話せた。そのことが本当に役に立った。キューブラー・ロスの死の受容過程において説明するときには、実例をあげて説明したことでわかりやすくもあったようだ。
先生は強い人だと思います。だから、僕も先生みたいになれるように頑張ります。そうお手紙をくれた生徒がいた。わたしの何かが役に立つなら、それはありがたいこと。(父からは、「勝手に俺の話してから」などとよく言われていた。もちろん、嫌ではなかったはず)
現場の経験だけでは、わかりきれなかった家族の真の想いなど、父から沢山学んだ。ありがとう父。
更に余談だが、父の葬儀の際は、代表して父に言葉をかけてもらうことを親友のおじちゃんに依頼した。そこでも、おじちゃんのユーモアと父の人柄もあり、笑いが起こった。葬儀で笑いなんて!と思う人もいるだろうが、父はそんな人なのだ。しんみりされるより笑顔で送ってほしい。最高で最幸な見送りも完了した。
おわりに。
最初の文を書いて随分時間を空けてしまった。忙しかったのもそうではあるが、父との看取りの期間を整理するのにこの文章は長くなると思っていたのと、しっかり向き合う気持ちの準備ができていなかったんだと思う。
でも、これを書くのにはこれまた父が関係している。
1か月くらい前になるが、父が夢に出てきて
「もう書かんとか?」と聞いてきたのだ。
そのうち書こうと思いながら時間が過ぎてしまい、やはり思いのほか長くなった。短くまとめることは難しい。でも、書こう!と決めてからは、何時間かけても書き上げたいと思った。
誰かの目に留まるかはわからない。だけど、看取りが悲しいばかりではなく、教えられる学び、日々関わる時間の大切さに気付かされることがたくさんあり、看取りの時間が残された者にとって幸せな時間であることを知ってもらうきっかけになるといいなと思う。
そして、何より①で書いていた私の想像していた父の最期。私の不安とは裏腹に父の表情は穏やかでなんなら笑ってた。人生のまだ見ぬ時を不安に思うより、そうならないために出来ることをすればいいのだ。親孝行できただろうか。わからない。父は私が娘で満足してくれただろうか?
でも、はっきりと私は言える。父の娘で良かった。
そして、生き様を見せてくれた父に心から感謝している。
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