最期のその時④〜奇跡の人〜

最初の投稿から随分時間が経ってしまった。③を書いて、下書きにいれたまま寝かせすぎてしまった。サボっていた…といえばそうでもある。あの時のように書いて残しておこう!と思う気持ちが少し複雑になっていた。
また、それについてはそのうち触れたいおもう。

そんなこんなで、父の復活劇が見られるのでは?!と期待する気持ちは先生からの現実的な言葉で打ち消されるのだった。
でも、目の前にいる父を見るたびに
「この人本当に死ぬの?終末期の患者なの??」と私の心は複雑。そのくらい死が遠いものに見えるからだ。
相変わらず、電話で仕事の話をしている父。血液検査の結果を聞いて本人も「なんで下がらんのやろうか?」と不思議がっている。いや、こっちがその数値で今の状態でいられる事の方がわたしたちは不思議だよ!

ちなみに、この地点でも父は自分の状態がそんなに良くない事を知らない。
余命宣告どうしますか?と先生、看護師さん、家族で何度も話した。看護師さんは、話した方が・・・と言う。わたしたちは複雑。父は生きる意志を確実に持っている。自分がもうダメかもしれないと思っていないのだ。
長年の付き合いになった先生も「お父さんの場合、言わない方がいいかもしれない。意外と気にしてしまいレベルが落ちる可能性がある。」わたしたち家族もそれに同意した。だから父は何も知らないのだ。父を見ていたら、数値が改善しないと家に帰れないじゃないか!と怒りや悲しみが感じ取れる。そして、あれ?もしかして自分は長くないのか?という不安もあったのかもしれない。
日中は兄弟や友人、仕事仲間から「体調どうだ?」と電話がかかってくる。コロナ禍の中、面会もできないためみんな心配して電話をかけてくれる。それに応じる父。そんな時、たまーに「俺はもうダメなのかもしれん。数値が改善しない」とこぼす事もあった。でも、その言葉に弱々しさはなく、それどころかどこか前向きさを感じる声色なのだ。
父がもう近くないうちにいなくなってしまう。でも、目の前のこの人は今すぐ死ぬとは思えない…わたしも毎日葛藤した。夜は夜勤と称し、基本的にわたしが病室に泊まる。日中は姉1か姉2が行く。前述した通り、母は車いす。どちらかの姉が11時頃までに病室に来る。そしてどちらかの姉が、母を連れて病室に来て家に帰る。一日中父のそばに誰かいる。わたしは昼過ぎに自宅に戻りシャワーを浴び、簡単に食事をして仮眠をとり夕方また病院に行く。正直心がとても辛かった。病院への行き帰りの車の中で我慢していた涙があふれ出る。道行く人をみれば、父と同世代くらいの人がたくさんいる。その姿を見て元気だなと羨ましいとすら思った。病室では、常に明るく気丈に振舞った。でもどうしても堪えられなくなると、廊下のベンチに少し座りこっそり泣く。何度も看護師さんが声をかけてくれてその言葉に救われた。そして、何事もなかったかのように病室に戻る。

話は戻すが、基本的に夜をわたしが担当した。その時には、職場に事情を説明し有給休暇を取った。毎日来るわたしに「お前、仕事は?」と時々聞く父。休んでいるというと怪しむので、「今試験期間中だから昼までで終わり。明日は自分の授業ないから休みもらった」などとよく考えればなかなか苦しい言い訳を父は「ふ~ん」と聞いていた。
数日は交代で姉1・2が夜勤をすることもあったが、それぞれの対応力に違いがあった。
わたしは、介護士という経験者でもあり父の変化にすぐ気づく。父が、ゴホッと咳をすれば痰を出したいのかな?とサッとティッシュを差し出す。水が欲しい頃かな?と思えば水いる?と聞き冷蔵庫から取り出す。私の夜勤サービスはこまやかなのだ。そして、ご飯も食べれない父と一緒にいるためこの部屋でご飯を食べることに気が引けてしまい食べなかった。そして、ほとんど寝ずに過ごす。もともと、眠りが浅いわたし。ちょっとした物音で目が覚める。何かあったらという常に緊張感もあり、父の咳払いひとつで目が覚めるから眠れないのだ。
そんなわたしの夜勤とは対照的な姉の夜勤。
姉は病室で爆睡し、父が呼んでも起きなかったらしく(笑)次の姉の夜勤の時には、「寝るならここにティッシュだけは置いておいてくれ」と手の届くところにティッシュを置くことだけを言われたそう。
そして、父が「〇〇(わたし)の時は、先にいろいろしてくれる。やっぱり介護してただけあるな」と姉に話していたとのこと。わたしは父に褒められたことがほぼない。直接褒められることはなかったが、姉からその話をきいてとてもうれしかった。

さて、食事も食べたいものもないしおなかもすかない父。しかし、がん患者さんの話でよく聞くアイスを欲しがった。父は袋入りのイチゴ味のかき氷を食べたがった。あれは後味がさっぱりしているらしい。ほかのアイスも食べたが、「後味が悪い、水くれ」と言う。今は10月。店頭からアイスの種類が減り、どこを探してもかき氷が売ってないのだ。家族総出でかき氷を探す。大きなスーパーなどにもなく、時期的においていないと返答。こうなれば!!とかき氷を売っている会社に連絡して事情を説明。売ってほしい旨を伝えるも、こちらとしては箱売りしかできないとの返答だった。どこぞの商店でもあるまいし、箱でなんて多すぎる!そして、それを入れる場所すらないよ!!ということであきらめるほかなかった。探し回った結果、地元の小さな商店に数個の在庫と、父の友人宅に夏に買ったものがそのままあることが判明。それをもって氷を敷き詰めてクーラーボックスに入れて病院に持って行く。しかし、病院までの1時間弱の道のりでかき氷は溶けてしまうのだ。もはや液体と化したかき氷を飲み、「アイスとは違うね」という。事情を話すと、病棟の冷凍庫にアイスを預かってくださった。父が欲しがる時、日中でも夜中でもアイスを提供できるようになった。

入院した初めの頃は、退院したらステーキが食べたい。時間が経つとやっぱり、すき焼きが食べたい。さらに数日したら、水炊きが食べたい。とだんだんさっぱりしたものを欲していた父。
「人間食べんようになると終わり。」よく言っていた。アイスだけでも食べるのだ。父の生いる強さを感じるしかなかった。


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