最期のその時⑤〜父の決断、家族の覚悟〜

そんなこんなで、父と病院で過ごした時間は2週間。
「今夜がヤマです」ドラマで聞くようなセリフを耳にして2週間が経とうとしている。相変わらず肝臓の数値は最悪で、先生は「奇跡」という。
父が生きていることも、こうやって話ができることも。ありえないことだと。
2週間の間、前述したように家族は毎日来るし(しかも泊り込み)、病棟の看護師さんたちからは「本当に仲が良いですね」と言われる。
病状説明や今後についても何度も話した。

先生が病室に毎日来てくれる。父は「なんで数値下がらんのやろか?」と相変わらず死が迫っていることを感じていない。本当はとてもきついはずなのに。
先生が「ここでやれることはやっているけど、今後どうしたい?」と父に尋ねる。このやり取りは抗がん剤治療している時からずっとしていたものなので、先生はファイナルアンサーとして聞いているのだが、父はそうは思っていなかったと思う。
どうしたい?と聞かれた父は、迷わず「俺は家に帰る」と答えた。さらに
「おれは死ぬときは庭を見ながら畳の上で死ぬ。〇〇(母の名)の横で死ぬ」と冗談交じりに本音を話す。そのやりとりがあり、明日の血液検査で数値が悪くなっていなければ帰ろう!となった。何度も言うが、この時も自分がもうすぐ死ぬなんて思っていない様子がうかがえた。
この頃には、父の顔を拭くと、おしぼりが黄色くなる。カバの汗か?というように恐らく体内にたまって行き場をなくしている胆汁が血液やリンパ液に混ざっているのか。涙も黄色いから不思議だ。
こんないつ何があってもという状況でも、わたしたち家族は明るく振舞った。部屋に入るなり「今日もかわいい三女が来たよ~」と言い、父が呆れた顔をする。同じことを長女も次女もやっているのがまた面白い。女ばかりの我が家。父はよく跡取りがいないことを周りから心配されていたし、本人も息子がいたらと思っていた。この入院中に父が「俺は幸せ者だ。女ばっかりと思っていたけど、姉妹だからこうやって自分の世話をしてくれているんだろうな」とつぶやいた。姉妹にとってこんなにうれしい言葉はなかった。

次の日、血液検査の結果悪化はしていなかった。しかし、数値はもちろん良くもなく、横ばいだった。先生は決断してくれた。
「どうする?帰る?」と父に尋ねる。父も「帰る」と答えた。
そこから、バタバタと準備が始まり、民間救急車を手配し自宅に帰ることが決まった。父のベッドも父の寝室ではなく隣の庭の見える和室に運び、最期を家で迎える準備を整えた。訪問看護もお願いした。
退院の日、すべてのスタッフの方が挨拶に来て下さりわたしたちもお礼を伝えた。もちろん先生も。半分泣きながらお礼を言う父。
その時!ある看護師さんが「よかったね、やっと帰れるね。なんでも好きなもの食べてよか、お酒ものんでよか」と言った。
わたしはその時の父の顔を忘れない。えっ?という顔。
常々、父は「なんでも食べていいと言われるときは終いの時やもんね」と言っていた。まさか自分がそうなのか?!と知った顔だった。
こういうとその方を責めるように聞こえるかもしれないが、そうではない。父が腹をくくった瞬間だと感じたから、よかったのだろう。

もともとお酒がだいすきな父。ダメと言われても飲むし、生魚もダメというのに刺身を食べる。家に帰ったら何が食べたいかと聞くと「キリンの瓶ビールをキンキンに冷やしておいてくれ。それを親友と乾杯する」と言う。
その数日後、「やっぱりアサヒがよか。アサヒの瓶を冷やしておいてくれ」とことづかった。すぐに姉たちに指令を伝える。
この父との時間を過ごす2週間。私は病室で父と長い時間過ごしたけど、母や姉たちは父のために奔走した。果物が好きな父のために、梨や柿を擦って搾り汁を持ってきたり、望むことできることは何でもやった。父のための苦労なんてちっとも苦ではなかった。
帰ることが決まった父。安心と不安、複雑な思いだったと思う。
「俺はわがままやろうね」と言った。何が?と聞くと返事はなかった。きっと、家族が自分のためにこうやって動いていることに対しての有難さと申し訳なさだったのかもしれない。(この言葉を聞いてまっさきに浮かんだのは、術後のコーラ事件だけど…(笑))

帰宅の日。外は雨だった。10月1日に強制入院となり(しばらくこの件でわたしのせいで入院する羽目になったと責められたが)、13日に吐血&緊急手術。今夜がヤマですの衝撃発言。今日は10月22日。
10月のはじめと終わりでは、気温が大きく違った。雨も降り、気温も下がっていた。久々に外の空気に触れた父は「さぶっ」と言った。
民間救急車には、救急車に看護師さんが乗ってくれる(病院の方ではない)。救急車と言っても、あくまでも民間のものなので信号も止まる。ストレッチャーに寝たまま酸素もつけたまま、乗り込めるが乗り心地は・・・。
寒かったため、暖房をつけてもらう。できるだけ早い道で行ってもらうようお願いしたが、近道は道が悪くガタガタ揺れる。寝ている父にはきっと辛かっただろう。途中にグランドゴルフができる土手が見える。いまだにここの景色を見ると、この日のことを思い出す。元気な人たちがゴルフをする姿が羨ましいと思いながら通っていたこの道。途中、父に寒くない?暑くない?とか聞きながらも心の中は不安でいっぱいだった。無事に家まで帰り着けますように。父がきつくありませんように。40~50分くらいの道のりだったが、私には3時間くらいの体感だった。そのくらいの緊張感と不安がわたしを襲っていた。今〇〇らへんよ。などと声をかけ、どうにかうなずくだけの父。きついんだろうな…。早く!と思えばそのたびに信号につかまる。家のだいぶ近くのとこで父に「今どこら辺?」と聞かれた。結構しんおどかったのだろう。父の御用達の釣り用具店のところだった。あと少しよ!と言いながら、私はばれないように窓の方を見て泣いた。もう父が釣りに行くこともないのか。

やっと、やっとの思いで自宅に着いた。家には家族と父の長兄が待っていた。
ストレッチャーを下ろし、部屋に入っていく父を見送り、叔父をみた途端わたしは号泣した。無事に連れて帰ることができたという安堵感でいっぱいだった。


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