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イラストを描いてます、だなんて言えなかったよ
そう、タイトル通りね。
わたしのこの創作活動は、イラストが始まりなのだけど、
あっという間に革にどハマりしてあっという間に革作品が売れるようになって(12年前)、気付いたら絵はほとんど描かなくなってた。
とにかく何か表現することで食べていきたかったから、絵に拘っていたわけでもない。
ただ最初はその手段がまずは絵しか無かった、というわけ。
絵の技術は、無い。
でも、世界観は、在った。
よく言われたのは、
「世界観を持ってるんだからえりちゃんの絵はそれでいいんだよ。」
ということ。
http://eri-art.com/gallery/illustration.html
(↑イラストギャラリー)
うんうん、知ってるよ、知ってるけどね、技術がないが故に、もっと表現したいのに出来ないことが多過ぎて、だから、わたし的には自分で自分の絵に合格点を出せなかったんだよね。
どんな分野でもそうだけれど、その分野を専門的に学んだ人は、学んでいない人の作品というのはすぐにわかってしまうもの。(それが良い悪いの話ではなくてね!)
何でもそうだ。
スポーツだって何だって、基礎は大事じゃない??
基礎という土台がしっかりあった上で、どっかーーん!と個性ある作品が作れたら最高だよね。(と、わたしが思っているだけ)
ピカソのように。
ということで、わたしはわたしの絵にokが出せなかったものだから、なんとなーーく、気持ちが乗り気になれなくて。
イラストの仕事を頼みたい、という人が現れても、乗り気になれなくて(つまり自信も無くて)ほとんど断った。
だから、イラストを描くときは、
「わたしにはわたしにしか出せない世界観があるんだから、それで大丈夫なんだー!」
と、自分に言い聞かせて納得させてから描いてた気がするよ(笑)
(もちろんそればかりじゃないけど)
とまぁこんな具合だったのですが、
どちらにしても創作活動始めて間も無く革にどハマりし、気持ちが革へ真っしぐら。
寝ても覚めても革!!昨日も今日も明日も革!!
というくらいに没頭し延々と革作品を作り続けたから、
わたし=革
という印象がいつの間にか定着していたし、イラストは時が来たら描けるようになるだろうなーと、ある意味手放してた。
(革は、ひたすら楽しくて楽しくて作り続けた)
でも、革作品を作れば作るほど、
「ま、どうせわたしは革の人だから、わたしのイラストなんて欲しい人別にいないよねー」
なーんて思う始末。
(その間も、軽井沢で委託していたお店ではイラストのポストカードが結構売れてたのに、、だよ?)
つまりはね、
自分の頭の中が決めるのよね。
現実とは関係ない。
現実は、ポストカードだって売れてた。
わたしのイラストが大好きと言ってくれる人もたくさんいた。
でも、それを「無いこと」にしていたのは、
紛れもなくわたし自身だ。
色んなことに言えるよね。
他人は褒めてくれるのに、自分は自分を褒めてあげない、とか、無いかな??
「在る」のに、 「無かった」ことにしてしまう。
そう、「無かったこと」にしてしまうのは、
いつだって自分自身だ。
逆を言えば、
他人からは「無い」と言われても、
自分では「在る」と思っていれば、
それは、「在る」ということになる。
つまり、全て自分自身の頭の中で決めているということ。
目の前に映る世界がどう映っているかは、
自分が全て決めているということ。
環境や他人によって決められていると勘違いしがちだけれど、
決めているのは、紛れもなく自分自身。
これが、人間に与えられた「自由意志」。
「神は人間に自由意志を与えた」
大学の時のキリスト教学の授業で聞いたこの言葉が、
がっつーーーんと来て、
凄くよく覚えてる。(この話は過去にもブログに何度か書いた)
人間、頭の中を変えればいかようにだってなれるんじゃん!!
と思ったことを覚えてる。
つまりはね、
何をどう考えどう捉えるのかは自由ってことなのだから、
どちらに転ぶことも出来る、ということ。
「在ることを無いことにする」
「無いことを在ることにする」
「勝手に不幸になる」
「勝手に幸せになる」
「人を妬むのか人を愛するのか」
「人を憎むのか人を赦すのか」
こういった選択は毎瞬人間に突き付けられていて、
それを無意識に選別し過ぎてる、ということ。
反射的に、かな。
それは思い込みによることだったり、
過去に言われた言葉によってだったり様々だけど、
どちらにしても、
全ては「自分で」決めているということ。
神様は、なーーーんて素晴らしい自由を人間に与えたんだ〜♪
と、思った。
だから、今度はそれを自覚して利用する。
きちんと、意志を持って、選択する。
わたしは「自ら」どう選択しているのか。
「どの感情を選択している」のか?
「どう在りたい」のか?
「どう信じようとしている」のか?
「何を疑い何を信じる」のか?
これ、全部自由。
受動的ではなく、本来能動的なことなのに、
受動的に反射的に選んでしまうのは勿体ない。
話が逸れた気もしますが、元に戻ります。
となるとね、
タイトルにあるように、
わたしは
「イラストを描いてます」なーんてほとんど言えなかったのよね。
いや、、そんなこと言える程描いてないし、、みたいな。
でもそれはわたしが勝手にそう決めていただけのこと。
わたしは絵の技術はない(と、思っている。いや、確かに無いんだけど 笑)
でもね、大きな絵は描きたかった。
捻くれた頭をまずは自分で騙す。
というか、自分で自分を納得させられる簡単な道筋を探る。
気楽に筆を取れる頭の中に書き換える。
その為にはどの道を辿ればいいのだろう??
どうすればわたしはわたしを納得させられるのだろう??
どうすれば、イラストかいてます、と言える自分になるのだろう?
とね。
まー、こんなこねくり回して考える必要はなくて、描きたきゃ描けばいいでしょ!って話なんだけど、
そんな風に出来る人はいいけれど、大抵の人はなんか勝手に自分で難しくしちゃってなかなか手を付けられ無いことって多い。
だから、気楽に描ける状態に心地良く自分を持っていくための突破口を探したのね。重たい腰を上げて描く、、のではなく、軽やかに描き始める、とでもいうのかな??
それで、あ、これなら自分にok出せるかも??と思って見つけた道筋が、革作品を絵に書き起こす、というもの。
これを確か3年前に思いついた。
元々、ラッピングの時にその作品をちゃちゃちゃーと袋に描いたりしてて。
それが凄く評判良かったのよね。
自分でも、こーゆーの得意だわ〜って思っていたし。
とは言っても、、そこになかなか手を付けず、あっという間に3年も経っていた訳ですが^^;
その間も結局、革ばかりやってて、別にそれが悪いわけでは無いしそこで新たに生まれた作品、技法もある。
だから、わたしにとって「絵を描く」というタイミングがたまたま今だったんでしょう。
以前の記事にも書きましたが、新コロを境に、オリジナルイラストでのマスクのデザインがピコーンと頭に浮かんで、それを早速商品化したら、ほんと一気に詰まりが取れてイラスト熱が上昇した。
そしたら、それに続いて、ほんとに、急激に、大きな絵も描き始められた。
そして、その突破口として、3年前に思いついていた革作品を絵に起こす、というの早速やったのだけど、これがさらりと始められた。
(F6サイズ)
↓元の作品はこれ(ちょっとアレンジしてるけど)
鉄は熱いうちに打て。
うん、熱しやすく冷めやすいわたしは、
せっかく絵に対しての熱が一気に上昇しているので、
これを逃すわけにはいかない♪
途端に画材をどんどこ買っているし。
今がタイミングなのでしょう。
とにかく、よくわからないなりに絵を描いてみてます。
気持ちが続く限り続けます。
(他にも色々試してます)
そして、こうして色々試しながら、自分なりの「線」を探るのが好き。
やればやるほど人間は進化出来るということが楽しい。
生きるって楽しいね。
(↓Tシャツ販売に向けてこんなのも試作中!)
あ、、、この記事書いてて思い出した。。。
大きな絵、昨年から書き始めていたんだった!!
こうしてすっぽりと記憶が抜け落ちるのはいつもの癖。笑
そのことはまた気が向いたら書きます。
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