Essay|映画を観るということ
映画を観るとは何か。
先日「風の谷のナウシカ」を映画館で観てからというもの、そのことについて考えている。
4月の初めに日本では“緊急事態宣言”が発令された。過去類を見ない特別措置に国民は初めてのことに戸惑い、外出を自粛した。この自由を制約することの是非や倫理観については継続的に考えていきたいものだが、現実としてあらゆる場面での経済活動が止まった。命あってのことだからとその制約を受け入れ、手洗いうがいをし、熱もはかった。不確かな情報が錯綜する中、今とるべき行動について考えている。
あらゆるイベントは中止され、密室と考えられる劇場、映画館、美術館、ライブハウスは営業中止となった。もちろん文化的な影響だけではなく多くの業界に影響があったのは言うまでもない。
『風の谷のナウシカ』
(監督:宮崎駿、1984)
映画館に行けない。
そんなこと考えてもなかった。
4月からの2ヶ月が文化的な活動に与えた影響はとても大きい。食事をすることは生きることに直結するが、文化的な営みは生きることに直結しないのか。命に関わること、健康であることを置いて優先されるものはないが、なんだか。
6月になってようやく映画館の営業再開が始まった。そして、おそらく映画業界に対する救済措置であろう18日には「一生に一度は映画館でジブリを」のコピーとともに全国372館でジブリ4作品が一度に劇場再上映されると告知された。待ってましたと言わんばかりに私は、公開初日に映画館に行った。観たのは「風の谷のナウシカ」だ。
そして、驚いた。知っているはずのそれは、全く知らない初めての体験だったから。テレビでは何度も何度も「風の谷のナウシカ」は放送されていて、私も何度となく地上波放送を観ていたはずだけど。何度でも言うが、初めて観たのだ。私のような人は今回をきっかけに多くいたんじゃないだろうか。こんなにも素晴らしい作品だったなんて、私は一体何を観てきたのだろう。
映画館は制約がある。
良い意味でも悪い意味でも。
なにせそこがいい。大画面で映し出されている約2時間の間、トイレは我慢するし、咀嚼もできるだけ音がならないように。なによりスマホは開かない。このとき大画面で映し出されるものを観て、音を聞く。映像をみながら、自己の心情や記憶、体験を思い出すこともある。多くの場合は我を忘れて映画の主人公に没入し、びっくりするほど泣くこともある。目の間に繰り広げられる光や展開に感動して脳が喜ぶ。
これは視聴ではなく、体験だ。
ナウシカと一緒に、腐海の底に沈んでいるようだったし、村を救出するためにメーヴェに乗って空を飛んでいるようだった。思い出すだけでも鳥肌が立つその体験は、テレビで流されるジブリとは全く違った。手描きの線に圧倒され、ナウシカの声に勇気づけられ、物語をひっぱる音楽に世界をみる。
「風の谷のナウシカ」が描くテーマが、新型コロナウィルスと暮らす私たちの生活と重なるところが多分にあった。マスクをしなければ暮らすことができない。人間が人間の都合の良いように作り上げたきた世界。一気に広まった地球規模のパンデミック。これまでのあり方、選択の本質を問うテーマ。映画を観ているのか、現実を観ているのか、境界線は曖昧でいま直面する問題を行ったり来たりしながら、ナウシカの雄姿に何度も救われたし、心が回復していくようだった。
この「体験」は侮れない。
私はNetflixやAmazon Primeで毎日のように映画を観るし、最近ではYoutubeやオンライン上で配信されるショートフィルムだって面白い。
でも、それでも映画館でみる映画は格別で、なんというか深い。そう、深いのだ。生まれた頃からあった本作に今、出会った。その事実に感動し、映画館の凄さを思い知りそんな高揚感に包まれて、私は新宿の劇場を後にした。
映画館で映画を観ること。それは、少なくとも家で映画を観ることとは、異なることだ。