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選択

今晩は。
えりです。

どうしても眠れずブログ書きます。

昨日、ある古くからの友人に何だか急に会いたくなり、10年ぶりに会いに行った。

整体師をしている友人のお店へ行くと、疲れ切った表情の彼。

久しぶりに会ったのに、思わず「疲れてる?」と聞いてしまったほど。

聞くと、

彼の母親は末期のガンで、今まで内蔵を何ヶ所も切除していて、明日はさらにまた他の部分を手術するという。

正直、生きるかどうかの手術だろう。

それにも関わらず、
コロナの影響で家族の面会も許されないらしい。

本来ならば、できる限りそばに寄り添い、励まし、見守っていたいだろうに・・・

日本社会とそこに住む彼が引き寄せていることとはいえ、やるせなさと憤りと悲しみを感じずにはいられなかった。

そのガンは、発覚してから一年後の生存率が20%とのことで、友人の雰囲気からは半ばもう仕方ないことと諦めている様子だった。

家に帰ってから、この出来事の意味はどこにあるのか考えた。

まず、ひとつめは自分の両親の存在への感謝。
まだ元気に二人で暮らしていてくれている。
これはとても有難いこと。
すぐにLINEで最近のこちらの様子を伝え、写真を送った。

それから、頭をよぎったのが、

「他人ごとを自分ごとのようにあつかうんや」

というバリのアニキ丸尾さんのお言葉。

もし自分が家族ならどうするか。

もうこれ以上体にメスを入れさせたくはない、愛する家族と心安らかに過ごす時間が欲しいと思うはず。

ホスピスや免疫療法について調べまくって、何とか病院から連れ出す方法を探すだろう。

そこで、余計なお世話かも知れないことは重々承知の上で、簡単にいうと、手術をせずに家族が会える方法を探してみてはと相談窓口のリンクと共にメッセージを送った。

20%の生きる確率と
残る80%の確率

どちらを選択して信じるかは選択する本人次第。

奇跡は起こせる

わたしはそう信じている。

だから、彼の家族が再び会い、お互いの顔を見て、触れ合い、心安らぐ時間が持てるようにと強く、強くお願いした。

あとは、友人とその家族と母親本人がどの選択をするかだ。

いいも悪いもない。

選択の結果が事象として現れるだけ。

だから、するならば愛ある選択をしたい。

この出来事の本質は、自分にとってはこのことを学ぶためだったのかもしれない。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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