自己責任社会で、少し寛容に生きてみる
最近見たNetflixのシリーズ。Maid(邦題:メイドの手帖)
暗い。とにかく暗い・・・。
なぜか、そんな映画やドラマに惹かれる。
アメリカ・ワシントン州を舞台にしたこのドラマ。
3歳の娘を連れて、アルコール依存症の夫から逃げ出した25歳の母親。なんとか見つけたDVシェルターに身を寄せながら、清掃代行の仕事に就く。
何度も絶望を味わいながら、大学への入学を夢見る…
「できないのは、努力が足りないから」
他人や妹に対して、そんな風に思っていた過去の自分がいる。
でも、世の中にはいくら努力をしてもどうにもならないことがある。
目に見えないハンデを背負って生きている人がたくさんいる。
この主人公も、絶望の生活のなかでも何度か幸運が巡ってくるものの、唯一の家族であるヒッピーの母親など、本人のコントロールの範囲外の要因により、チャンスを失っていった。
このドラマでの印象的なシーン
ガソリンスタンドにて
Alex:「3ドルもらえませんか?ガソリン代が足りなくて家に帰れないので」
見知らぬ女性:車に目をやると小さな子供が見える。無言で3ドルを渡す。
主人公のAlexは満タンにガソリンを入れているわけではない。持ち合わせた僅かなお金で、数ドル分だけ補充する。この時はうっかり入れすぎてしまったのだ。
日本でこのシーンを想像したら
日本でこんな場面に遭遇したら、声をかけられた人は300円というお金を赤の他人に差し出すだろうか。
子供の姿を見たらその程度の額なら出そうという人もいれば、額に関わらずなぜ他人を助けないといけない?と考える人も少数派ではない気がする。
しかしそれ以前に、困っている本人が、見ず知らずの人に助けを求められる雰囲気が、この国にはないと思う。
・妊娠中、妊婦マークを付けて満員電車で優先席の前に立っていても、寝たふりをされる。
・バスの中、ベビーカーを畳んでいるのに嫌味を言われる。
・定食屋で泣く子供に対して客のババァに怒鳴られる。
全て私の実体験だ。子育てにこんなウエルカムでない雰囲気が充満する社会で、困った時に助けて、なんて言えるだろうか?
誰もが子連れに対して嫌味を言うわけではない、でも電車では10人中9人がスマホに夢中。社会との関わりをシャットダウンしているように見える。
私には関係ない、全てあなたの責任です。とでも言わんばかりに・・・
助けてとは言い出しにくい社会で
今やたいていが核家族。子供を持って母になっても、夫の助けさえ借りられない人がいる。友達に悩みを打ち明けられない人もいる。母親像を知らずに育った人もいる。
世の中には、いろんな人がいる。
自分の育った境遇が全てではない、と想像を働かせ、もう少し人に寛容に接しようと思う。
27歳のメキシコの学生
この物語を見てふと思い出したのは、アメリカへ交換留学した時のクラスメイト。メキシコ人の彼は当時27歳。その時私は19歳で他の学生よりも明らかに年上だった。
しばしば課題を一緒にすることもあったが、放課後にはしょっちゅう息子を連れていた。
話を聞くと二十歳そこそこで父親となり、その後離婚。中南米出身でアメリカ在住の妻と、同じ街で息子を育てながら(Co-parentingと言う。アメリカでは多い)レストランなどで働いたのち、お金を貯めて、大学に入ったのだという。
日本以上に深刻な格差問題をかかえるアメリカ。しかし、年齢に関係なく大学で学べるなど、少なくともやり直しの機会は日本よりも多いように感じる。
あれから10数年が経った。あの親子は元気にしているだろうか。
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