#1 リフレクションジャーナルを公開する難しさ 自分と他者の境界線
小学生のころ。日記が続いた試しがなかった。
多分、宿題の日記は先生に見せるので、何か每日「いいこと」を書こうとしたり、「事件」や「イベント」がないといけない。
そう思うと、なかなかネタに詰まって書けなくなってしまう。
役に立とうとしない記録
ブログも同じで、誰か他者が読む前提があるから、読む人の「役に立つ」こと、メッセージがなくてはいけない。
そんな想いに縛られて毎日は書けなくなってしまってるなぁと。
でも、自分では「良いこと」「役に立つ」ことを書いたと思っても、それは受け取り手次第で、「役に立った」かは読んだ人が決めればいいのだと。
頭では分かっていても難しい。
每日いろんなことを体験し、考え、感じるのに、その瞬間は何かに残さないと流れていってしまう。
それはそれで「今」を生きるならい良いのかもしれないけれど、昨日の私を忘れてしまうのはなんだか残念な気がして、3年前くらいから毎日ノートを持ち歩き、何かしらそこに書いている。それはジャーナルと言うほどではないけれど、日々の出来事や出会い、感じたこと、学んだことを、その時のエネルギーのままに書き残した記録になっている。
そんな自分のノートの一部のエッセンスを、こちらで公開してみようかな?と思ったのは、Yellで知り合い、Presencing Institution のGAIAプロジェクトのツールを使ってお違いにリフレクションをし合って気づきを深めていくSSC(Social Solidality Circle)のお仲間の淳さんの影響が大きい。
SSCの集まりでも、個人的なモノローグがダイアログ(対話)になり、そのモノローグやダイアログから今の自分に響くものが抽出されて響いてくる。
だから誰かの個人的な日記、私の個人的な体験や気づきからも、もしかすると何か受け取る人がいるのかもしれない。
そんなことが淳さんの↑の記事を読んで浮かんできた。
ということで、あえて役に立とうとせず、読みやすさも度外視した、時に結論の出ない日記、セルフリフレクションジャーナルの一部を、書いていってみる。
このジャーナリングにおいては、私の他のnoteの記事とは違うトーンになると思う。
あらゆるもの、両極も同時にある感覚
U理論について昨年から、様々な場で学ばせていただいる。
上記Presencing Instituteのプログラムや、勉強会、U理論を体験し学んでいく講座など。その中のアドバンス講座の終盤で、嫌いな自分を手放し又は受け入れたあとの新しい自分を感じるワークをしたのだけれど、その時の至福の感覚を記録しておきたい。
私は「嫌いな自分を」受け入れる選択をした。そして出てきた「新しい自分」は「無限の広がり」だった。
この無限の広がりを体で感じた時に、ものすごい悦びや安心感、ワンネスの感覚と言うと軽いけれど、何でもありの多様性と、全ては根源では同じであるという感覚。自分の内側に空っぽの大きな広がりがありつつも、そこは満たされている。涙がこみ上げるような、胸が締め付けられる痛みや淋しさ、悲しさを感じながら、同時に全ての人、人ではない何かとつながっている安心感や、そこから湧いてくる嬉しさ、笑いの泡が湧き上がるような感覚。光と影、暖かさと冷たさ、どっしりとグラウンディングしている感覚と、鳥のように舞い上がり飛んで行けるような軽やかな自由。そんな矛盾したものが全く違和感なく自分の中に感じられた。そしてこれって本来みんな持ってるものなんじゃないか。この感覚が感じられると、本当に何があっても大丈夫と思えるなと強く思った瞬間だった。
悟りとか、そんな大層なものではないけれど、いろんな哲学や宗教が伝えてくれているのは、ここへの気付きへの道なのかなと。この世には良いも悪いもなく(それさえも含んでいて)ただあらゆることがあるだけ。それをどのように受け取り、判断し、活かすか(活かすも活かさないもどちらでもいいのだけれど)はそれぞれの状態や段階次第。
いつが始まりで終わりか。それさえもなく、今この瞬間があるだけ。
季節がめぐるように、一日がめぐるように、人生もめぐる。
今がどんな状況でもそれは、その循環の一部。
自己というものも、大きなものの一部であり、常に拡大縮小したり動き続けている。自己と他者の境もくっきりしたり曖昧になったり、北極光のようにゆらゆらとしている。
#1から取りとめのない日記になったけれど、これも良し。
05/05/2021