謀略放送『ゼロアワー』の知られざる成功が教えてくれること(3)
東京のJRお茶の水駅から明治大学へ向かうと、その脇にとちの木通りがあります。通りを水道橋駅方向にまっすぐ進んでしばらくすると右手にちょっとレトロな建物が。「文化学院創立の地」の銘板は残ってますかね?
この建物について調べると、すぐに次のような説明が見つかります。
今でも広く知られているこの説明、よく考えてみるとちょっとおかしいことに気づきます。そもそも太平洋戦争の真っ最中、皇居にもほど近いこの場所に、わざわざ捕虜収容所を作る必要なんてあるのでしょうか?戦時中の強制閉鎖、接収後に旧陸軍参謀本部駿河台分室となったこの建物、この中で行われていたことはあまり語られてきませんでした。
実はこの建物は英米豪との情報戦の最前線でした。その中でもとびっきりに異色の放送、チャールズ・カズンズと二人のアメリカ人の戦時捕虜(POW)3人のチームに魅惑のハスキーボイスのアイバ・戸栗ダキノが加わった頃、チームはこの建物に移ってきました。今回は謀略放送『ゼロアワー』の秘密の核心について紹介します。
戦時捕虜チャールズ・カズンズ少佐
今日では、謀略放送『ゼロアワー』は「東京ローズ」ことアイバ・戸栗・ダキノの名前で知られていますが、彼女が番組制作に参加したのは放送が始まって半年以上経過してからでしたし、彼女の『ゼロアワー』へ起用することを決めたのは事実上のディレクターだったチャールズ・カズンズの一存だったと言われています。
魅惑のハスキーボイス?
彼女を見かけた時、チャールズ・カズンズが抱いた彼女の印象とはどういったものだったのでしょうか?
カズンスが、周囲の大反対を押し切って、彼女「東京ローズ」ことアイバ・戸栗・ダキノの番組への起用を決めた理由は何だったのでしょうか?そもそもタイピストとして雇われた彼女はアナウンサーとしてはズブの素人だった訳で、よほど彼の心の琴線に触れる声だったのでしょうか?歴史的な出来事となってしまった今となっては、そのあたりの事情は確かめようないわけですが、聴取者が自発的に聴取行動しなければ告知効果を発揮しないラジオのメディアとしての弱点を知り尽くした判断であったように思います。
ラジオ放送:20世紀初頭の最新IT技術
今日、YouTubeなどの映像配信サービスやTwitterなどのSNSの普及により通信手段だけでなくマスメディアとしての地位も急速に高めつつあるインターネットですが、ラジオ放送が同様の地位を確立したのは1932年のBBC(British Broadcasting Corporation)のエンパイア・サービス(Empire Service)の開始以降のことだと言われています。ほぼ同時期の1933年にナチスが政権を奪取したドイツでは宣伝省が設立されましたが、大英帝国全域をカバーするこの短波放送サービスのマスメディアとしての影響力は桁違いでした。以降、双方のプロパガンダ合戦が展開されますが、その宣伝戦の様子は今日のロシアとウクライナの報道合戦を想像してもらうとわかりやすいでしょう。
ラジオマンとしてカズンズの資質と経験
カズンズは、砲兵士官だった父の赴任地であったインドで生まれ、その後、本国に戻ってパブリックスクール、王立陸軍士官学校と、軍人としてのエリートコースを歩みました。卒業後は、任官して士官として再びインドに赴任し、退役後はオーストラリアに移住して、商業ラジオ局でアナウンサーの職を得たカズンズは南太平洋地域ではラジオパーソナリティとして知られる存在なりました。アナウンサーとしての技術はもちろんのこと、アナウンス原稿の執筆などの番組制作の知見、さらに英国流の謀略放送(プロパガンダ放送)の考え方まで、彼の資質や経験は非常に幅広く価値の高いものでした。
陸軍参謀 恒石重嗣少佐
戦時捕虜となったカズンズを東京で出迎えたのは、陸軍参謀本部の第2部(情報、宣伝、謀略等)第8課(総合情勢判断、宣伝、謀略、暗号解読、防諜)の恒石重嗣少佐でした。陸軍士官学校44期、陸軍大学53期の恒石は陸軍のトップエリートですが、太平洋戦争の開戦直前に関東軍から参謀本部へ転任し、陸軍の情報参謀となりました。当時の参謀本部は英独の間で繰り広げられている謀略放送(プロパガンダ放送)の応酬などの情報戦の動向が理解できてなかったため、陸大を出たての若い恒石に丸ごと押し付けた形で、その結果、若干33歳で陸軍の情報戦全般を一人で取り仕切りました。
1942年8月のカズンズの到着は恒石が謀略放送を手がけ始めるきっかけのひとつだった訳ですが、他の多くの陸軍将校が大声で威圧するいわゆる恫喝型であったのに対し、恒石はひたすら説得する懐柔型であったためカズンズの説得には手こずったようです。「声がオーストラリア人に知られている」ことを理由に日本のプロパガンダ文面のアナウンスは絶対拒否を貫くカズンズに対し、あの手この手を使って説得を試み、「放送についての忠告や助言ならやろう」との譲歩を引き出しました。
この説得に協力したのがラジオ東京の二世職員のジョージ満潮英雄でした。のちに恒石は「満潮さんの人柄のおかげで、捕虜の人も次第に協力するようになった。でっぷり太って、見るからに温厚、それでいて頭がきれる。こういう満潮さんに捕虜も敬服し、ゼロアワー放送が成功した」と語っています。このような時間をかけて説得し続ける方法、もちろん帝国陸軍には捕虜の待遇を定める戦時国際法のジュネーブ条約を遵守する規則もありましたが、そもそもそれが恒石個人の交渉スタイルだったように思えます。
カズンズ、ラジオ東京の嘱託として働く
結局、カズンズはラジオ東京(現NHK)の嘱託として雇用され、放送原稿の手直しや、海外放送専門のアナウンサー(多くは日系二世)の英語指導などアナウンス技術の教育をすることになりました。ちなみに、ラジオ東京が用意したスーツに身につけ、勤務するのは東京放送会館、宿舎は第一ホテルという一般外国人並みの待遇でした。
東京放送会館は現在の日比谷シティあたりにあり、1964年の東京オリンピックの際にNHKが渋谷に移転するまで使われていました。第一ホテルは今も営業しています。東京・新橋をご存知の方ならよくわかっていただけると思いますが、第一ホテルから日比谷公園の方に数分くらい歩くと到着する立地です。カズンズも毎日スーツ姿で通勤したそうですが、カズンズが到着した1942年の帝都東京は、まだ外国人が街中を闊歩できるぐらいには穏やかでした。
謀略放送戦略の転換
1942年末のある時期まで、恒石は日本が標榜していた大東亜共栄圏構想に基づくプロパガンダ放送の開始を念頭においていたように筆者は想像しています。この年の11月に捕虜たちから提出された『⽇本ノ対外放送ニ対スル意⾒』でのカズンスの意見から窺い知ることができます。カズンズが日本の大東亜共栄圏構想をどの程度承知していたのかはわかりませんが、意見書ではその主張に一定の評価を与え、英米豪の人民に受け入れさせる方策をアドバイスしています。恒石の密かな狙いが、カズンズをドイツのホーホー卿ことウィリアム・ジョイス、あるいはイタリアのエズラ・パウンドといったプロパガンディストに仕立て上げることだった可能性はあります。
しかしながら、南太平洋での日本軍の戦況がカズンズの説得に時間をかけることを許さなかったようです。陸軍軍人である恒石にとって、ミッドウェー海戦以上に注視していたガ島作戦(ガダルカナル島の戦い)で日本軍がさまざまな弱点が露呈する中「前線で戦う兵士を直接支援できる謀略放送」を考えるようになったと想像されます。つまり「敵兵の戦意を喪失させる心理戦」を仕掛ける他の枢軸国とは全く違った戦略が生まれます。以降、日本の謀略放送は「穏やかで楽しげな番組で戦いに疲れた兵士からの共感を引き出し、彼らの心の隙間にそっと忍び込む」放送へとシフトして行きます。
東京ローズが登場するまでの『ゼロアワー』
捕虜放送 『ゼロアワー』の萌芽
1942年秋、フィリピン攻略戦で捕虜となったウォーレス・インス(Wallace Ince)とノーマン・レイズ(Norman Reyes)が到着しました。
インスは既にテッド・ウォーレスの名前で多くに知られるラジオ・パーソナリティでしたし、レイズはフィリピン人の父とアメリカ人の母を持つ19歳のジャズ・ボーイでした。二人とも典型的なアメリカ人気質で「ラジオに関われるのであれば、どこでもラッキー」とばかりに協力の申し出をすぐさま受け入れました。彼ら二人とカズンズが始めたのが、レイズがジャズレコードを選んで、曲紹介とともに放送にのせ、その合間にインスが絶妙なタイミングでニュース等を挟み込むというもの。ここでは、カズンズは裏方に徹して、レイズのパートは本人に任せ、インスが読み上げるニュース原稿を作成する…生粋のラジオマンだったインスとレイズがやりたかったことを詰め込んだものをラジオ番組として成立するよう調整する役回りだったと思われます。後にディスクジョッキー番組として定着するこの新しい形のラジオ番組をサンフランシスコの短波放送局(おそらくKGEIやKWID & KWIXだと思いますが日本側には記録は残ってません)にはこき下ろされたでしょうが、GI(アメリカ兵)にはすぐに評判になり、その人気の高まりを受けて午後6時からの15分番組はすぐに30分番組に拡大されました。こうして短波放送による情報戦が始まりました。
ちなみに、この番組はラジオ東京が独自に制作していたもので、恒石は制作には全く関与していなかったのですが、放送内容やそのリアクションは細かなところまでよく把握していたようで、次のように分析しています。
おそらく同盟通信社が作成していた番組の速記録(英文)を介して観察していたと思われます。やはり情報将校として切れ者だったのでしょうねぇ。
『ゼロアワー』始動
1943年の年始からの恒石からの「捕虜三名を含めた特別の専任グループを編成」する要請に答えて、ラジオ東京は3月ジョージ満潮英雄を班長とする前線班を組織しました。目的は「太平洋方面敵軍隊向謀略放送を実施」で『ゼロアワー』という番組名は満潮の発案でした。これにより日本は本格的に謀略放送に着手します。前線班のメンバーは捕虜3人に加えて15〜6名。捕虜放送の音楽とニュースの掛け合いのパターンを踏襲した、次のような番組構成で制作されました。
おそらくラジオ東京のスタッフにとっては、これまでにカズンズから習ったラジオ番組の制作方法を試してみる実習的な意味合いもあったと思います。彼らのカズンズに対する尊敬と信頼は既にかなり堅固になっていて、中には「カズンズ先生」と呼ぶスタッフも居たとか。カズンズは教師としても優秀だったことが伺えます。
音楽:番組にはなくてはならない要素
番組に使う音楽は当初、レコードが主体でした。しかし、ラジオ東京の資料室にはアメリカ⾳楽のレコードが不⾜していました。街のレコード屋では思うようなものが⼿に⼊らないので、局に働いていた⼆世から駆り集めたりもしましたが、まだ⾜りない。局員を上海に送りこんで、レコードを買い集めたこともありました。最後には日本のジャズプレイヤーの⽣演奏を放送で流したりもしました。これもレコード不⾜をおぎなうためでした。
このような苦心惨憺した努力はどうやら報われていたようです。恒石によれば、戦後、1949年夏サンフランシスコで⾏なわれた東京ローズの反逆裁判に、⽶陸軍のラジオを統轄していたテッド・E・シャードマン中佐(Ted. E. Sherdeman)が政府側証⼈として出廷したそうですが、彼は次のように証⾔したそうです。
ラジオ東京のゼロ・アワーに対するGI達の聴取率は、アメリカが⾃国軍隊に対して⾏なった放送よりはるかに⾼かったことを正直に告⽩しています。太平洋戦争の最中、日本が物量でアメリカを上回った数少ない例でしょう。
中波傍受:恒石の秘密兵器
今日のSNSの「いいね」とは異なり、短波放送による情報戦では謀略放送の効果を測ることには苦労します。対戦国側の放送内容を細かく把握・吟味して、こちらの放送の効果を推し量るのが基本ですが、それ以外にも対戦国側の新聞記事や(ドイツやイタリアなど外交関係が維持されている)在外公館が送ってくる公電など、対戦国が発する直接・間接のあらゆる情報が評価の対象になります。
開戦直後、対戦国である英米豪の情報が全く入ってこなくなった状況を打開するため、恒石はアメリカ国内のラジオ放送を傍受する施設の建設を命じ、埼玉県の(東武東上線の)上福岡に本格的な傍受施設を完成させていました。
この傍受施設はアメリカ西海岸のサンフランシスコやロサンジェルスだけでなく、中西部のコロラドあたりまでのアメリカ国内放送を傍受できる優れもので、この施設を活用して二世の人々約200名を徴用して参謀本部嘱託とし、日夜三交代でアメリカ国内のラジオ放送の受信する参謀本部別班と称する体制を構築していました。受信箇所は米国中、西部10数ヶ所の放送局であって、聴取しながら速記し、タイプして、英文のまま(英語の弱い役所へは訳文)外務省、情報局、海軍その他関係方面へ機を失せず送信しました。この傍受情報の効果について恒石は次のように語っています。
つまり『ゼロアワー』を聴いて「そんなバカな」と思っていた聴取者も、それが真実だとわかった途端「なんで知ってるんだぁ」と驚いて、それ以降聞き漏らせなくなるということですね。カズンズが意見書で述べた「嘘をついてはいけない」という教えを、恒石は守っただけでなく聴取者ひとりひとりのレベルまで落とし込んでいこうと考えていたのだとしたら、ちょっと恐ろしい感じもします。
『ゼロアワー』の魅力の源泉
音楽とニュースのサンドウィッチを基本構成とする『ゼロアワー』を魅力的な番組にしていたのは、音楽とニュースのつなぎ目に挟み込むアドリブや寸劇でした。
その寸劇の内容は「たわいもの」のないものだと満潮は説明しています。
もちろん『ゼロアワー』は毎日午後6時に放送してますから、前線班の面々はGIの気を引く「たわいもない話」を捻り出すことに苦労していたと思います。この聴取者の気持ちに徹底的に寄り添うアドリブや寸劇は、過酷な現実に向き合う前線の兵士には尚更響き「こんなことやってられるか!」と厭戦気分を抱かせる効果を狙っていました。しかし、この大真面目にたわいもない話やくだらない話のネタ出しに苦労するとは…現在のテレビCMの制作現場でも同じことやっているみたいですが、80年前にそれをやっていたというのは彼らは時代の最先端を走っていたと言うことでしょうか?
以上が恒石の「無数の電波に割り込んでいくことが難しい」という問題意識に対する前線班の答えだった訳ですが、現在の登録者を増やすことに悩む YouTuber にとっても番組制作のヒントになるのではないでしょうか?
この時点での反響
次のニューヨークタイムズの記事によれば、アイバ加入以前の1943年6月の段階で『ゼロアワー』は、既にGIの人気番組になっていたようです。
アメリカの新聞記事になったことから相応の注目を集めていることは間違いないのでしょうが、その扱いは戦場からのレポートの一つのトピックでしかなく、のちの「東京ローズ」のブレイク時と比べると、かなり地味な報道に見えます。
アイドル誕生 『ゼロアワー』の最後のピース
アイバ戸栗郁子が『ゼロアワー』に参加した1943年11月、日本の謀略放送は次のステップへの大きく踏み出そうとしていました。その1つは冒頭で紹介した文化学院の接収です。それまで分散していた陸軍の謀略作戦に関わる様々な拠点を1つに集約するためでした。また、ここは捕虜収容所も兼ねてました。『ゼロアワー』の成功を受けて、数ヶ月前から準備が進められていた陸軍直轄の謀略放送『日の丸アワー』を開始が12月に迫っていたからです。放送業務に経験のある捕虜を多数活用するこの謀略放送のため、彼らの宿舎が必要でした。これはまったく偶然の一致だったのですが、後世の歴史家たちの猜疑心をくすぐる意味深な出来事のように見えます。
ドウス昌代の『東京ローズ』について
本稿も「アイバ・戸栗・ダキノ」の名前を書いた途端、東京ローズの呪縛から逃れられなくなります。ドウス昌代の『東京ローズ:反逆者の汚名に泣いた30年』は日本人が書いた東京ローズについて詳しく述べた書籍であり、英語版も出版されていることから、英米豪では「東京ローズに関する真実を語ったノンフィクション」として認知されている向きがあります。しかし、上坂冬子の『特赦:東京ローズの虚像と実像』や恒石自身が書き残した『心理作戦の回想』、または『ゼロアワー』に関わった複数の人物の証言では「同書は真実とは異なる」と批判しています。さらに太平洋戦争中の日本の謀略戦をテーマとする日本の研究者からも同書の信憑性について疑義が提示されているようです。一連の資料を精査した結果、ドウズの書籍の少なくともアイバと『ゼロアワー』の関係を語った件は相当の創作が混じっているのではないかと筆者も考えています。
ドウズの書籍は1970年代に出版されましたが、その成立過程を調べるとなかなか興味深い事実を見つけることができます。筆者が思うに、昨年から今年にかけて全世界で公開された映画『オッペンハイマー』の原作である『アメリカン・プロメテウス』が、もし1970年代に刊行されておれば、ドウズの書籍と同じ轍を踏んでいたのではないでしょうか?歴史的な事実を俯瞰するためには、やはりそれなりの「事実が落ち着く時間」が必要なのでしょう。
アイバ・戸栗・ダキノが起用された理由
冒頭で紹介したように、タイピストとして雇用された彼女を無理矢理アナウンサーに仕立てたのは「カズンズが彼女のハスキーボイスに魅了されたから」ということになっています。ドウスによれば、アイバへのカズンズの口説き文句は次のようなものだったそうです。
当時の花形の職業だったラジオアナウンサー、それも英語放送では十分に有名な存在だったカズンズからこのように誘われたら、(アイバではなくても)20代の若者なら「やります!」と思わず答えてしまいそうです。
こうしてアイバからの全幅の信頼を勝ち取ったカズンズですが、彼女に全てを正直に話していた訳ではないように思います。事実上の『ゼロアワー』の番組ディレクターだったカズンズには、この時期の『ゼロアワー』に欠けていることが見えていたのではないでしょうか?それは番組の開始以来、数ヶ月を経て様々な要素が追加された結果、番組全体を見渡すと少々散漫な内容になってしまっている。ただ、制作スタッフの前で、番組の弱点を指摘するとカズンズ自身が番組のフロントマンとして登場することを期待されてしまう。それだけは避けたい。もちろん、カズンズにはこれが戦後に故国で叛逆を疑われる行為とみなされる可能性もわかっていたと思います。
窮余の策としてカズンズが捻り出したのが「フロントマンに変わるユニークなキャラクターを番組に登場させる」ことだったのではないかと筆者は想像しています。おそらく聴取者の間で番組名の代わりに語られるような、それまでラジオには登場したことがない、とびっきりユニークなキャラクター…それが「みなし子アン(Orphan Ann)」だったという訳です。このキャラクターへのカズンズの入れ込みようをドウズは次のように伝えています…
この時点ではカズンズの計画は完璧に見えました。戦後、もし放送について問われても「カズンズに無理やり付き合わされた」と言えば済むと彼は考えていたことでしょう。この経験がアイバに自信とプライドを与え、終戦直後アメリカのマスコミが殺到した際の彼女が「私が東京ローズです」と答えてしまうなどとは考えてみなかったことでしょう。
アイバ起用後の『ゼロアワー』
ドウスによれば、アイバの参加にともなって『ゼロアワー』の番組構成も次のように変更されました。
ちなみにドウスはこの番組構成の紹介に続けて、次のような念押しのような記述を書き添えています。
ドウスの書籍はアイバの特赦請求中に執筆されたことから、彼女の請求に悪影響を及ばさないよう「アイバは『ゼロアワー』放送の内容に関知していない」ことを明確するよう配慮していた事が伺えます。が『ゼロアワー』の放送時に毎回カズンズが捕虜メッセージの紹介を担当していたと言う記述は疑わしい。何故なら捕虜メッセージの紹介は『日の丸アワー』で行われていたはずですし、そもそもカズンズ自身はマイクの前に座ることを極力避けていたはず。彼自身も反逆罪による訴追の懸念があったからです。
池田徳真が紹介する『ゼロアワー』
池田徳真は因州池田家第17代当主、太平洋戦争時は正に貴族だったのですが、英オックスフォード大学への留学経験のある知英派で1941年の日米開戦時はオーストラリアのメルボルンの日本公使館で嘱託(文化担当)として働いてました。交換船で帰国した1942年、英国留学時からの友人である樺山資英が室長を勤める外務省ラジオ室に身を置きました。それまで軍とは関わりがなかったはずの彼が参謀本部の謀略放送に関わることになったキッカケは、意見書を書いたことによるようです。
恒石が池田の意見書に目を止めたどうかは定かではありませんが、結局、池田は駿河台技術研究所(文化学院の接収後の名前)の研究員になり、陸軍直轄の謀略放送『日の丸アワー』の企画を担当することになりました。参考のため、彼は先行する『ゼロアワー』の放送現場を何度も見学していますが、放送中の様子を次のように書き残しています。
ドウスが書いた『ゼロアワー』の放送現場は、カズンズ、インス、レイズの3人の捕虜とラジオ東京のスタッフが、互いに欺きあうギスギスした関係を記述してましたが、この池田の説明を読むと『ゼロアワー』の現場はドウスの想像よりもずっと穏やかだったように見えます。
まず『ゼロアワー』は陸軍がラジオ東京に制作を委託した番組なので、陸軍の立ち会いは無く、恒石の方針により放送内容の検閲も省略されてました。制作責任者は形式的には満潮でしたが、事実上の番組ディレクターはカズンズでした。関係者である池田は『ゼロアワー』の放送現場を何度も見学できましたし、必要に応じて外部の人間(ジャズの演奏者など)も出入りしていたようです。
さらに、池田が指摘するように『ゼロアワー』はプロパガンダ色の薄い番組でしたが、それはカズンズが出した協力の条件をラジオ東京(と恒石)が守ったからです。それ故、カズンズは(恒石の意向である)「GIをホームシックに陥らさせる」言い換えると「GIを励ます」番組作りに真面目に取り組んだようです。この「ホームシックに陥らせる」と「励ます」とのダブルミーニングこそが、カズンズからの最大限の協力を引き出すための満潮(と恒石)のトリックだったようで、結果的に『ゼロアワー』は米国放送よりも多くのGIを惹きつける人気番組へと成長しました。このカズンズと恒石の間の「どこまで協力するか?させるか?」という微妙な駆け引きは、アイバには知り得ない話だったでしょう。つまりアイバを説得する際、カズンズは全てを打ち明けた訳ではないと筆者は想像しています。
聴取者の反応
終戦直後、アメリカの新聞記者は大挙して日本に訪れ、占領軍の制止も振り切って「東京ローズ」の捜索に没頭した事実がドウズの書籍でも紹介されています。アメリカで『ゼロアワー』放送は広く認知されていました。
その放送内容に関しては次のような証言が残っています。
最前線で闘う兵士に向かって、バナナスプリットとアイスクリームサンデーを語りかけるアイバの個性的すぎるアナウンスは、他のニュース報道などはほとんど耳に入らないほどの強烈なインパクトで、彼らの「家に帰りたい」という思いを強く沸き立たせたことでしょう。おそらく日米開戦の直前に訪日し、ちっとも慣れないし、たぶん苛立ちの多い日本での生活を送っていたアイバは、たわいのない、でも正直な気持ちを言葉にしただけだったんだと思いますが、それがGIたちが共感する「みなし⼦アン(Orphan Ann)」というプロパガンダ放送では非常にユニークなキャラクターを作り出したように見えます。彼女のダミ声(ハスキーボイス)とも相まって『ゼロアワー』を相当風変わりな(でも楽しい)プロパガンダ放送にしたのではないかと…恒石は後日『ゼロアワー』について次のように考察しています。
恒石の書籍では「気の利いたアドリブ」という表現が幾つか登場しますが、それは彼がキャラクターという概念を知らなかったからだと思います。その点では英国留学経験のある池田は「キャラクターを作り上げた」と明確に述べているところから彼の博識とセンスの良さがわかります。陸軍直轄の謀略放送『日の丸アワー』を立ち上げるに当たって、恒石が池田の才能に頼ったのも頷けます。もちろんカズンズもキャラクターの概念は承知していたでしょうが、彼はアイバのバックグラウンドを正確には把握していなかったようなので、彼女の起用はかなりのギャンブルだったのではないでしょうか?
ともあれ、カズンズのアイバ起用は当初の想定を超えて成功しました。
カズンズの心臓発作
こうして1943年11月に始まった「みなし⼦アン(Orphan Ann)」をフィチャーした『ゼロアワー』はさらなる聴取者を獲得していきますが、1944年6月に転機を迎えます。事実上の番組ディレクターだったカズンズが心臓発作により番組から離脱しました。彼の発病は生活環境の激変、それまでのホテル暮らしから駿河台分室への移動が原因でした。元々、心臓病を患っていたカズンズは生活環境の激変に耐えきれず容態が急激に悪化し入院してしまったそうです。陸軍病院で1ヶ月あまり入院したのち、恒石が手を回して3ヶ月間順天堂病院に再入院し、番組からは概ね5ヶ月間の長期離脱となりました。以前、紹介した『ゼロアワー』の音声はちょうどこの時期の放送を録音したものです。
ドウスによれば、カズンズの離脱によりアイバの番組へのモチベーションは急激に低下し、何かと理由をつけては出勤をサボるようになったようです。が、前線班に所属する二人の女性アナウンサー、須⼭芳枝と早川フミ枝が「みなし⼦アン」の代役を勤めたので『ゼロアワー』放送には大きな支障は発生しなかったようです。
退院後カズンズは放送に復帰したと思われますが、その事実は確認できていません。この頃から米軍による東京空襲が始まったこと、陸軍も本土決戦への準備で大幅な改組が行われて恒石が参謀本部から転属した事など様々な原因が考えられます。でもラジオ東京が制作する『ゼロアワー』は継続され、終戦直後のGHQの短波放送の停止命令が出るまで放送されました。関係者も無事生き残って終戦を迎えられたようです。
ゼロアワーが教えてくれること
本稿では太平洋戦争中、日本が制作した謀略放送『ゼロアワー』の全貌について駆け足で紹介してきました。ミッドウェー海戦およびガダルカナル島攻防戦の敗退で陸海ともに転機を迎えた日本軍の宣伝広報は、それまでの単純な戦況報告から謀略放送への転換を余儀なくされました。ラジオの短波放送での経験が乏しい日本は、ラジオパーソナリティとして著名だったチャールズ・カズンズ少佐を始めとする戦時捕虜(POW)の指導を受け、謀略放送『ゼロアワー』の制作に着手します。
この番組は陸軍参謀本部の委託を受けラジオ東京が制作したパイロット番組で、南太平洋に展開するアメリカ兵を対象に、望郷の念を刺激し、厭戦気分を醸成することを目的としていました。したがってプロパガンダ色が薄く、アメリカ兵が好む音楽、ニュース、トークをバランスよく組み合わせた後のディスクジョッキー放送の構成で、南太平洋に展開するアメリカ兵を中心に多くの聴取者を獲得していました。この番組の制作手法は、今日の映像コンテンツの制作者に直接参考となる事例が多く含まれています。ここでは現在映像コンテンツを制作しているクリエーターを意識して『ゼロアワー』の番組制作をまとめます。
『ゼロアワー』の番組制作の変遷
先行するパイロット放送を含めると『ゼロアワー』は太平洋戦争中の1942年秋から終戦までの2年11ヶ月放送されましたが、その番組制作は現在の YouTuber やその他のSNSに投稿を続けるクリエーターと同じように、3つの段階を経て進化していきました。
第1期:1942年10月〜1943年2月
チャールズ・カズンズと(テッド)ウォーレス・インス、ノーマン・レイズの3人の戦時捕虜が始めたオリジナル放送の期間です。当時は録音技術が未熟でパソコンはもちろん、テープレコーダーさえ実用化されてませんでしたので、全てのラジオ放送は生放送でした。唯一の音源はレコード。番組中にレコードを流すラジオ放送は既にありましたが、レイズの好きなジャズを専門に流すラジオ番組というの『ゼロアワー』の原点だったと思われます。
レコードに録音されている音楽は概ね2〜3分の長さぐらいで、放送でレコードを解説し再生するのは概ね5分程度。レコードを掛け替える作業のために放送が中断してしまうのが弱点でした。そこでもう一人のアナウンサーが何かを喋ってレコードの掛け替える時間を稼ぐという方法が取られました。レイズがレコードを解説し音楽を再生し終わると、タイミングよくテッドが割って入って放送原稿を読み始める…といった形です。カズンズはその横で放送原稿を書いていたと推測されます。これが後の『ゼロアワー』の原型になりました。
このパイロット放送は南太平洋地域に向けて放送されましたが、1942年秋はガダルカナル島攻防戦の真っ最中であり、その最前線で戦うアメリカ兵の多くがこの放送を聴取していることがわかると、その年の12月に、恒石少佐は捕虜3名に日系二世のスタッフを加えた専従班を組織するようラジオ東京に要請を出しました。実質的に2ヶ月でパイロット放送を番組に格上げする判断は非常に早かったと言えるでしょう。
第2期:1943年3月〜1943年10月
ラジオ東京は前線班を組織し、正式に『ゼロアワー』の放送を開始します。この段階では3人の捕虜による放送はそのままに、それを支えるバックヤード部分を大幅に強化しました。
まずは音楽についてですが、ラジオ東京のコレクションをベースに、日系二世スタッフが所有するジャズレコードをかき集め、さらにこの時点では渡航が可能だった上海でレコードを買い集めて、レコードアーカイブの充実に努めました。
次にニュースは、開戦初期に恒石が構築した中波によるアメリカ国内放送を傍受した情報を元にローカルニュースを報道しました。他の短波放送では、このようなローカルニュースは扱ってなかったので、最前線のアメリカ兵は故郷のニュースを家族からの手紙などで知ることになったのですが、一足先に『ゼロアワー』のニュースが報道するので、さらに聴取者を獲得できました。アメリカ軍でも同様の日本の国内放送の傍受は行なっていたようですが、その情報を謀略放送に活用するようなことは行なっていなかったので、一歩先んじた試みでした。
さらにトーク。恒石はこれを「寸劇」と表現していますが、現在のラジオの5秒、15秒、30秒CMのようなものだと推測されます。もちろん謀略放送ですので商品の宣伝ではなく、最前線のアメリカ兵の境遇に同情したり、先に紹介したハンバーグのエピソードのように戦争が始まる前の生活を思い起こさせるような内容で、兵士の「家に帰りたい」気分を刺激するものだったと思われます。
1943年6月のニューヨークタイムズでは「最前線のアメリカ兵の間では『ゼロアワー』が人気である」との記事が掲載されたことからも、この時点で相当数の聴取者を獲得していたと思われます。
第3期:1943年11月〜1945年8月
ニューヨーク・デイリーニューズに掲載されている漫画 "Little Orphan Annie" を連想させる「孤児アン(Orphan Ann)」の登場により『ゼロアワー』はさらなる進化を遂げます。
このキャラクターを演じたアイバ戸栗ダキノは、アメリカの勝利を信じて疑わない保守的な日系アメリカ人でした。最前線で戦う多くのアメリカ兵と同世代の彼女は、本気で彼らに同情し、慰め、励まそうとしました。それは彼女が放送に登場する際の挨拶 "Ann, Your Friendly Enemy with your favorite program the Zero Hour" からも伺うことができます。
その結果「孤児アン」はアメリカ兵ひとりひとりの心の中に入り込む存在となり、『ゼロアワー』は多くのアメリカ兵が信頼するラジオ放送となりました。
Your Friendly Enemy(あなたに優しい敵)
アイバ戸栗ダキノの心情を投影したこの印象的なフレーズは、最前線で戦うアメリカ兵の心に刺さる一言だったのだと思います。こうして彼らが「東京ローズ」と呼ぶ『ゼロアワー』の女性アナウンサーは広く知られるようになりました。彼女の影響力の大きさからアメリカ軍首脳も無視できない存在でした。それは彼女をスケープゴードにした、戦後の対する反逆罪裁判をみてもわかります。軍首脳にとっては「将兵の心を惑わす忌々しい魔女」といったところでしょうか?「東京ローズ」は明らかにGIのアイドルでした。
しかしその内実は、アナウンサーとして素人同然だったアイバは与えられた原稿を読み上げていただけでした。時には原稿を言い換えたり、一言追加したりすることはあったのでしょうが…その面では現在のアイドルと同じだったと言えるでしょう。むしろ、こういった無作為の立ち振る舞いが、キャラクターに自然な深みを与えていくことも同じでしょう。やはり実在の人物の心情を投影したキャラクターほど聴取者(視聴者)の心を掴むのでしょう。見た目は日本人、でも中身はアメリカ人。だから子供の頃から日本は嫌い。考え方は保守的で誰に対しても自分の意見を言ってしまう。それ故、他人に甘えるのは下手くそ。そんな彼女がよりによって、たった一人で日本に取り残されてしまう。まるでアニメの主人公のような背景を持つアイバが投影されたキャラクター「孤児アン」はGIにとって「あなたに優しい敵」でした。その存在が『ゼロアワー』を伝説的な謀略放送にまで押し上げました。
『ゼロアワー』は謀略放送だったのか?
太平洋戦争後のアイバ戸栗ダキノの反逆罪裁判の争点であった「日本の『ゼロアワー』は本当に謀略放送だったのか?」という疑問について触れます。陪審員裁判となったアイバの反逆罪訴訟は、評決を得るまで膨大な時間を要しており、最後には検察側が証人への偽証を強要して有罪が確定しました。その後、偽証の強要が明るみになり、アイバには1977年に、特赦で市民権を回復しましたが、結局、疑問への答えは明らかになっていません。
本稿では「日本の『ゼロアワー』放送は、結果的にGIを楽しませ、慰め、励ます放送になったが、いつでも謀略放送へと転換できるよう備えていた」という結論に至りました。それがこの放送を制作した主導したチャールズ・カズンズと恒石重嗣の共通認識だったと筆者は想像しているからです。
戦時捕虜として東京に連行された際、カズンズは恒石の謀略放送への協力要請は拒絶しましたが、実は恒石に対し謀略戦について助言を行なってします。それは「99%の真実と1%の作為」といった英国流の謀略戦に対する考え方でした。恒石の解釈によれば、謀略放送はそれを聴取した人間の自発的な行動を促すものでなければ成功しないということでした。それ故、謀略放送では聴取者の信頼を獲得できるまで時間をかけて真実を報道し続け、聴取者の支持や共感を得ることにほとんどの時間を費やします。そして信頼関係が十分に築けたタイミングを見計らって(作為のある)提案を行う。これは第1次世界大戦の際(現在も紛争が続いている中東を始め)さまざまなところで謀略を成功させた大英帝国の方法です。
この教えに従い、恒石は『ゼロアワー』において、聴取者の獲得を優先し、聴取者の信頼を獲得するため放送にさまざまな工夫を施すことに力を注いできたのでした。アイバの反逆罪裁判に証人として出廷した恒石は、謀略放送の成否を尋ねられた際、十分に数の聴取者は獲得できていたし、信頼関係も築けていると考えているが、謀略を発動する前に日本は降伏したので、全ては徒労に終わったと証言しています。この証言を採用すれば『ゼロアワー』は謀略放送ではなくアイバは無罪となったのですが…アイバの有罪に固執した検察は日本から来た証人への偽証の強要に走ったのでした。
ニュースとフェイクの狭間
「謀略放送」という表現を「フェイクニュース」に置き換えると非常に今日的な問題になります。優れた謀略放送を目指し、英国流謀略戦術にならって聴取者の獲得と信頼関係の構築に努力した『ゼロアワー』は終戦により謀略を発動する機会を失ったことから、当時の聴取者にはよくできたディスクジョッキー番組として思い出になりましたが、その他のアメリカ国民には戦犯容疑者「東京ローズ」の番組として、その後30年間記憶されることになりました。今日の「いいね」と「フォロワー」の獲得に日々努力しているクリエーターも、何かを間違えるとたちまちフェイクニュースとみなされ犯罪者扱いされかねない現実があります。
謀略放送『ゼロアワー』は今日のコンテンツ・クリエーターにもさまざまなヒントを与えてくれる80年前の優れた事例だと考えますが、何よりも重要な教訓は多くの人々の耳目を集めようとする試みは本質的に、ひとつ間違えると犯罪とみなされるリスクと隣り合わせであることかと思います。実際、ニュースとフェイクの狭間は非常に薄いと言わざる得ません。
終わり
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