鎌倉 男ひとり ③光明寺
こんなふうに私は大町の四つ角から逗子に向かう一帯をくりかえしだらだらと歩き回った。手元の地図に載っていた寺もほとんど「制覇」。「ぼたもち寺」なるユニークな名前の寺にも出会えた。刑場に引かれていく日蓮に最後のご供養にと尼がぼたもちを供えたことに由来するという小さな寺である。
そんな中で、やはり思いがけないものに出くわした経験をもう一つだけ書いておこう。
鎌倉滞在もあと数日となった頃、私はそれまでなんとなく行きそびれていた実相寺という寺を訪ねた。路地の奥、実相寺は御所神社をはさんで来迎寺と近接して並んでいるのだが、そこにあったのが光明寺への案内板。「芋づる式」寺巡りとしては行かない手はない。
ところが、どこをどう歩いてもそれらしき寺に行きつかないのだ。もう一度案内板まで戻り、方向と距離を確かめて歩き出すのだが、同じところをぐるぐる回るばかり。手元の地図で見ると方向も距離も違っているようなのだがよくわからない。
もともと確たる目的があって探しているわけではない。見つからないなら見つからないでいいや、と普段ならなるところだが、再度と思い直したのはやはり残りあとわずか、という思いのせいか。私はグーグルマップなるものを開いてあらためて探索を始めた。
思っていたのとは全く違う道だったが、思いのほか近くに光明寺はあった。これまた想像以上に立派な寺であった。
全て後付けの知識だが、この寺正式には天照山蓮華院光明寺という浄土宗の大本山、目下令和の大改修中とかいう本堂は重要文化財、立派なわけである。
広い境内には人影もなく私は圧倒されるような感じであたりを見渡した。
「寺宝展」の看板が目についた。普段見ることのできない光明寺所蔵の「お宝」が展示されているという。中でも「當麻曼荼羅縁起」は国宝。原本は鎌倉国宝館が保存していて、展示はその写本とのことだが、めったに見られるものでないことは確かだ。私は迷わず会場に入った。
……ということで、妙法寺の「絶景」のごとく、光明寺では国宝の美しさに圧倒された、となれば話は綺麗にまとまるのだが、残念ながら世の中そう都合よくいくものではない。
一応もっともらしい顔をして広い会場を見て回ったものの、所詮は美術史や仏教には知識も素養もない身、「ふむふむなるほど」が精一杯。まさしくこれこそナントカに小判というべきところなのだろう。
ともあれ探していた寺は見つかり寺宝展まで見たのだから私としては十分満足。さて、と帰りかけたのだったが、最後に目に入ったのが何とも不思議な石碑だった。
山門に向かって左側の合祀墓の脇にあって背は高いが台座もあり、形状としては墓石に近い。左横には平たい大きな石が並んでいて、遠目にもその存在感は目を引いた。近づいてみると「高倉健 蓮華化生」とある。
これには驚いた。私はいわゆる団塊の世代。学生時代には池袋や新宿の映画館で「網走番外地」だの「昭和残侠伝」だのに熱中したクチである。訃報を聞いた時には丸の内東映に設置された祭壇にまで駆けつけたほどである。その健さんが何故ここに……。
「高倉健のお墓なんですか?」
私は近くにいた女性に尋ねた。寺の関係者らしいその女性の説明によれば、墓ではなく「墓碑」。以前には全国からファンが多く来ていたそうだが、コロナ禍もあって最近は訪れる人も少ないようだ。鎌倉でしたら宝戒寺さんの方がご縁があるのでしょうけれど、という。(後で調べてみると高倉健は北条一族の武将の末裔とかで北条氏ゆかりの宝戒寺には生前供物を欠かさなかったそうである)
ちょうど高倉健を最期まで看取ったという女性が出した本が話題になっていた頃だった。墓をめぐってはその「養女」なる女性がらみで随分とドロドロした話もあるのだが、それらを私が知ったのはずっと後のことである。
高倉健は浄土宗とは深い関りを持っていて「法然上人をたたえる会」の会員でもあったとか。その縁もあって浄土宗大本山の光明寺の境内に墓碑が建てられた由。ちなみにこの墓碑を建てたのは件の「養女」ではなく親族と有志だったそうである。
墓碑は「健さんの立ち姿」を表していて、その180センチという高さは高倉健の身長と同じ。横にある平たい石は「友石」といって友の姿を表している、といずれも傍らの説明板に記載があった。
私はしばし墓碑を拝むと寺の女性に礼を言ってその場を後にした。古都鎌倉とはあまり結びつかないかもしれないが、私にとっては忘れられない光明寺であった。